上の写真は、8月13日午後、ケーヨー・デーツー駐車場からバイパス越しに眺めた浅間山。消防署の火の見やぐらが見えている。
軽井沢に行けないときに眺めている長野県道路事務所HPの、鳥井原東交差点の画像とほぼ同じ地点からの景色かと思う。
さて、バルザック『あら皮』を読んだときに、中学校の国語教科書で読んだ芥川龍之介「魔術」と趣向が似ていると書きこんだ。
軽井沢に置いてある『芥川龍之介名作集』(少年少女現代日本文学全集12巻、偕成社、昭和38年[1964年]5月発行。上の写真)にも「魔術」は載っていた。
同書の巻末の「解説」には、芥川のどの作品がどこの教科書に収録されているかの一覧表が載っていた。それによれば、「魔術」は、光村図書の「中等新国語 中学2年」に収載されている。しかも「魔術」を収録していた教科書は光村版だけだったようだ。
ぼくの記憶とちゃんと符合している。ぼくたちの杉並区立神明中学校で採用された国語教科書は光村で、ぼくは中学2年生で芥川の「魔術」に出会い、さっそくその年のうちに、偕成社の子ども向け芥川名作集を買ったようだ。そして「魔術」の魔術によって、本というか読書にのめり込んでいくことになった。
上の写真は、偕成社版「魔術」の挿絵だが、ぼくがこの小説から得た印象からすると、やや「不思議」感が弱いか。下の写真は、同書の巻頭にある芥川の年譜に沿った写真。こういうサイド・メニュー(?)的な付録も、ぼくの読書意欲を書き立てた。
「魔術」を載せていたのは、光村1社だけだったようであるから、もしぼくたちの教科書が光村でなかったら、ぼくは読書や本が好きになり、大学卒業後に出版社に就職するようなことはあったのだろうか。1冊の本との出会いが人の人生を変えることはあるだろうが、教科書に載った1作品でぼくの人生は変わった。
--と書いたが、よく考えると、教科書で「魔術」と出会い、偕成社の「芥川名作集」などで読書に開眼する以前から、「カッレ君」などを読んでいたし、それ以前にも、わが家の客間の本棚には、アルスの「日本児童文庫」が一式揃っていた。
実は父が同文庫の1冊を執筆しており、全巻が版元から送られてきた。同社は倒産してしまい、印税はもらえなかったと父から聞いた。
google でアルスの同文庫のラインナップを見ると、そうそうたる執筆陣による興味深いテーマの本がいくつも並んでいる。その中に飯島正編の「映画」という巻があり(googleで調べると正式には「劇の話・映画の話」だった)、スチール写真入りでヴィットリオ・デ・シーカ監督「自転車泥棒」のカットごとの解説が載っていた記憶がある。
芥川の「魔術」によって本を好きになったというのは、後知恵なのかもしれないが、ぼくは「魔術」によって本を読む面白さを知ったことにしている。
--もう一つ但し書きをしておくと、ぼくは何でも「本」を読むことによって自分の興味が拡大してきたように思いこむ傾向があるが、大学時代のゼミ論が読書よりも刑事訴訟法の授業からインスパイアーされていたことに70歳近くになって気づかされた経験がある(断捨離の途上で、偶然大学時代の刑訴法のノートが出てきて、授業から得た知識や問題意識が大きなウエイトを占めていたことを発見した)。
そして、「魔術」も、光村版を教科書に選定した神明中学校の国語の先生方の授業力もあったのだろうと思う。とくに中学2年、3年のときにぼくたちのクラスを担当した明田川先生という中年の女性の先生が、ぼくが万葉集の歌を暗記できたことを褒めてくれ、ぼくの作文を褒めてくれ、卒業文集にぼくの「東京オリンピック」観戦記を掲載してくれるなど、ぼくの「作文」を最初に認めてくれた。ぼくの「読書開眼」は明田川先生のおかげかもしれない。
本を読むことも好きだが、でも本当は、ぼくは本を書く作家になりたかった。今からでも間に合うだろうか。
2020年8月17日 記