豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

富永茂樹『トクヴィル』(岩波新書)

2021年03月07日 | 本と雑誌
 
 富永茂樹『トクヴィルーー現代へのまなざし』(岩波新書、2010年)を読んだ。

 宇野重規『民主主義のつくり方』(筑摩選書)を読んで、宇野のトクヴィルに関する本も読もうと思ったのだが、以前買ったまま放置してあったこの本を見つけたので、まずこちらから読むことにした。

 トクヴィルは、フランス革命と旧体制(アンシャン・レジーム)との連続性を論じた思想家(政治家、外交官、社会学者?)である。彼は19世紀初めのアメリカ合衆国を訪問して、アメリカ、とくにその西部で実現した「平等化」を「アメリカのデモクラシー」の特徴と考える。
 しかし、その平等化は、じつはフランス革命前の絶対王政の時代に胚胎していたものであり、アメリカで実現したような徹底した平等化は、かえって人々の間に嫉妬をうむと言う。つまり、人々が平等に近づくほど、人は小さな差異(=不平等)にも納得することができずに、他人に対して嫉妬心を抱くようになると言うのだ。

 この指摘にぼくは得心した。広大な地所を所有する大貴族や、資産数兆円の大資産家には嫉妬心も芽生えないが、隣りのちょっとした金持ちに対してのほうが妬ましい気持ちが生ずるのは人情だろう。
 ただし、フランス革命は、その「断絶」の側面(『革命』=自由への愛、平等への愛)が重要だが、それ以前の社会と完全に断絶されたものでないことは、憲法の歴史に関する講義や教科書のなかで教えられ。フランス革命などの市民革命によってもたらされた自由で平等な市民(近代的個人)の誕生は、市民革命に先行した宗教改革による(教会や神父などのヒエラルキーを排除した)神の前における信者の平等、絶対王政のもとでの(同業組合など中間権力を排除した)臣民の平等によって準備されたものである、と。

 この本の著者が一番言いたいことは、トクヴィルの指摘した様々な「連続性」のうち、トクヴィルが学生時代から晩年まで生涯にわたって持ちつづけた「奇妙な憂鬱」が、ロンドン時代の夏目漱石などを通して、現代人にまで受けつがれているということのようである。本書の帯にはそのような宣伝文句が書いてある。だが、ぼくは能天気なせいか、あまり憂鬱感がないので、ぴんと来なかった。トクヴィルの近眼のエピソードから始まる導入部も、(著者は象徴的な意味をもたせたかったのだろうが)つまずかされた。
 トクヴィルから学ぶべきことは、以下に掲げる井伊玄太郎訳『アメリカの民主政治』(講談社学術文庫)の巻末の井伊氏の解説でほぼ納得できるのだが、改めて宇野重規『民主主義とは何か』(中公新書)で、宇野氏の捉え方も読んだうえで再考することにしたい。

  

 上の写真は、トクヴィル/井伊玄太郎訳『アメリカの民主政治』(講談社学術文庫、上・下=1972年、下=1987年)。下巻が2冊あるが、最初の(1972年版の)「下巻」は実は「中巻」にあたるもので、上巻とこの下巻に原書の第1編が、2度目の(1987年版の)「下巻」に原書の第2編が入っている。
 モンテスキュー『法の精神』と同様、トクヴィル『アメリカのデモクラシー』も、各章の題名がかなり詳細で、その章の内容が要約されているので、興味のある章だけをつまみ読みした形跡が残っている。時間があるので、今度はきちんと全部読むことにしよう。
 井伊訳の他に、研究社叢書の『アメリカのデモクラシー』も持っていたのだが、退職時に若いアメリカ政治研究者にあげてしまった。薄い本だったから原書の要約版だろう。岩永健吉郎、松本礼二共訳だったようだが、この両氏による要約版のほうが論旨が明確で分かりやすかったかもしれない。あげなければよかったかも。 

 2021年3月7日 記


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