大熊信行『家庭論』(新樹社、1963年)を読んだ。
森本和夫『家庭無用論』(三一新書)が、この本をマルクス主義家族論の立場から批判していたので、理論的な内容かと思っていたが、婦人雑誌などに寄稿した結婚や家庭に関する時論を集めたものだった。それだけ読みやすかったが、重複も多い。掲載誌は「婦人公論」が多いが、「泉」という雑誌に掲載されたものもある。「泉」は日本女子大が出している総合誌だという。1950年代後半から60年代初めは、女子大が総合雑誌を刊行する時代だったのだ。
全体は、「結婚ということ」、「母の像・父の像」、「家庭とは何か」、「主婦中心の思想」、「家庭の経営」、「夫婦と子供たち」、「第二結婚論その他」の7章に分かれ、結婚と家族について論じている。
大熊によれば、人が結婚するのは、性生活を平穏に持続的に低廉に(対価なしに)成し遂げるためであり、「家庭生活が・・・人生の幸福の場である」からである(29頁)。
結婚と家族の関係を明言した個所はなかった(ように思う)が、結婚によって子をもうけた夫婦は共同して子どもを育てることになるから、夫婦とその間の子どもによって形成されるのが「家族」ということだろう。
家族は、以前は祭祀の単位であり、政治の単位であり、経済の単位であり、教育の単位であったが、これらの機能は次第に外部化され、現在では家族は辛うじて「消費」の単位としてのみ機能しているという議論を彼は批判する(87頁)。
大熊によれば、家族は古来から現在まで、子を産み、子を育てるという機能を有することに変わりはない、人間の生命の再生産こそが家族の機能であるという(32頁、101頁~)。生殖(“ reproduction ”)には「再生産」の意味もある。人間の生殖は、たんに子を産み落とすだけでなく、その子を哺育、養育、教育する過程も含めて、「生殖」=「個体としての人間の再生産」=「人間そのもの再生産」の過程である(101頁)。そして人間の労働力の更新、栄養と休養をとって一日の疲労から活力を回復する「労働力の再生産」=「成熟した人間の生命力の日々の再生産」の過程も含めて、人間の再生産を担うのが家族である(102、144頁)。
この家族を貫くのは「共同原則」ないし「共産原則」(能力に応じて働き、必要に応じて得る)であり、これに対して国家は「強制の原理」によって規律される。国家は競争の極限である戦争によって象徴され、それは(核戦争の時代にあっては)「死」によって象徴される「男性」原理が支配するのに対して、家族は平和の象徴であり、「生」によって象徴される「女性」原理が支配する世界である。
家族は国家に対峙して、個人を守る働きを有する(343頁)。イギリスの俳優アレックス・ギネスが「タイム・ライフ」誌の表紙のために自宅を訪問した挿絵画家を門前払いしたというエピソードを、大熊は国家に対するする砦としての家族(家)の実例として紹介する(84頁)。ギネスは、あの「ドクトル・ジバゴ」でジバゴの兄を演じた俳優だが、アカデミー主演男優賞を受賞した「戦場にかける橋」以来、1本2億5000万円以上(当時)の出演料を得る大俳優だったが、ハンプシャーのさりげない家に住んでいたという。
平穏かつ継続的な性行為、そして生殖が結婚の目的であり、夫婦による生まれた子の哺育、教育が家族の機能だという大熊の議論は、自説を因習的な結婚観とは違うと強調する大熊自身は認めないだろうが、当時の一般的な(あえて言えば伝統的、因習的な)婚姻観に合致するものである。家族法の世界では「婚姻」の意思とは、「真に社会観念上夫婦と認められる関係の設定を欲する」意思とされるが、当時の「社会観念」では、まさに生殖を目的として、夫婦が同居、協力して子育てをする、永続的な男女の結合を「夫婦」と見ていただろう。
しかし今日では、このような生殖ないし性愛指向的な結婚観には批判があるだろう。そもそも昭和30年ころからすでに多くの批判があった。「主婦」の役割肯定論なども、本人の主観的意図としては、現に「主婦」の地位にとどまらざるを得ない当時の日本の多くの女性を擁護する目的だったのだろうが、現状肯定的に過ぎるものとして批判されるだろう。
大熊の諸々の主張、提案の中で、ぼくが最も面白いと思ったのは、彼の「第二結婚論」の主張であった(随所で繰り返し出てくるが、例えば346頁以下など)。
彼によれば、結婚は本来は上記のような生殖(子育てを含む)を目的とした、永続的な男女の結合であり、当然同居を前提とする。このような結婚を彼は「第一結婚」と呼び、これに対して、生殖を目的としない(さらに言えば生殖を行わない)、持続性のない(1、2年で終焉することもある)、同居も前提としない(非同居の)結婚もあり得るとして、そのような結婚を「第二結婚」と命名する(346~358頁)。
このような「第二結婚」が可能になったのは、科学的な避妊法の確立によって「生殖なき性」が可能となり、それが新しい性道徳を生んだためであり、さらに東京などの都会では安アパートが出現して、非同居でも性行為が可能になったためであるという(婉曲に書いているがそういうことだと思う)。小津安二郎の「東京暮色」に出てきた安アパート、そこでのヒロイン(有馬稲子)の妊娠、中絶が思い浮かぶ。
ここで大熊は、レオン・ブルム、リンゼイ判事、バートランド・ラッセルを援用し、彼らへの支持を表明する(346~9頁)。「第二結婚」を選択するものとしては、編集者、記者、医師、法律家、芸術家などの職業に従事する女性が想定されている。
大熊の結婚論に示された第一結婚、第二結婚と、わが民法が規定する「法的」婚姻との関係は明確ではないが、第一結婚はもちろん、第二結婚も「法的」婚姻に含まれる場合があるように読める(354頁ほか)。生殖を前提として夫婦が共同で(当然同居して)子を養育する「第一結婚」が民法上の「婚姻」に該当することはもちろんだが、婚姻期間に終期があり(有期)、同居も要求しない(非同居)「第二結婚」を民法上の「婚姻」とすることは、現在の判例、学説では無理だと思う。
しかし、ぼくは個人的には、可能な限り多様な結合形態の男女に(本人が希望するなら)民法の婚姻を利用することを認めるべきであり、対等な両当事者が契約によって婚姻の具体的内容を決めることを許容すべきだと考えている。
民法が規定する婚姻の効果を、当事者間の同意によってどこまで変更してよいか(任意規定と強行規定の境界)については議論があるが、本当に対等な当事者であれば(その認定は難しいが)、かなり広く契約に委ねてよいと思っている。同居義務や婚姻費用の分担義務、離婚時の財産分与義務の解除や、死亡時の配偶者相続権の放棄も認めてよいと思う。民法の規定よりもっと個人主義的に、夫婦の独立を尊重した関係を希望する夫婦は少なくないと思う。逆に、夫婦間の経済的格差を前提にした、雇用契約に近いビジネスライクな夫婦契約もあり得るだろう(後述の石垣綾子「主婦=第二職業論」は読んでいないが、そのような主張か?)。問題は本人の自由意思をどのように確保、確認するかである。
最終的に、夫婦間の契約によって解除、放棄できないのは子育て、子の養育に関する義務だけでよい。
大熊が主張した「第二結婚」は、最近言われるようになった多様な男女結合形態の平等な保護(=「婚姻」制度の利用を認める)の先駆的な意見と見ることもできる。
その他、印象に残ったことをオムニバス的にいくつか。
昭和36年の「週刊新潮」創刊号が「家族」を特集していたなど、戦後の家族論はジャーナリズムが先導していたことの指摘(65頁~)、谷川俊太郎が20歳代に親の責任の重さを歌った詩を書いていたこと(328頁)、石垣綾子の「主婦=第二職業論」論をめぐる論争、奥むめおによる「主婦会館」1億2千万円の建立と「主婦連」(懐かしい!)のエピソード(162頁)、大宅壮一の亭主関白ぶりを娘が批判したことや、清水幾太郎の娘、中野好夫の息子のエピソードなど、いずれもぼくらの世代には懐かしい名前やエピソードもたくさん登場する。
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おまけに昨日、散歩の折に見かけた桜の写真を1枚。
石神井公園駅と大泉学園駅の中間あたりにある練馬区の女性参画センター(?)の庭の桜である。保育園も併設されており、多少は大熊『家庭論』と縁がなくもない。
2021年3月27日 記