豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

建築でたどる日本近代法史・3 極東軍事裁判法廷

2023年06月16日 | あれこれ
 
 「建築でたどる日本近代法史」の第3回は、第2次大戦後、日本の戦争犯罪人を連合国側が裁いた極東軍事裁判(東京裁判)の法廷が設けられた市ヶ谷の旧自衛隊駐屯地に建つ、三島由紀夫の自決で有名になったあの建物である。
 記事は朝日新聞1990年(平成2年)1月6日夕刊(上の写真)。「今のうちです “昭和の史跡” 自衛隊市ヶ谷駐屯地」というタイトルで、「東京裁判の法廷」「三島由紀夫自決の地」という副題がついている。記事によれば、ここに防衛庁が移転することが決まって、戦争中は大本営本部が置かれ、戦後に極東軍事裁判が開かれ、三島が自決した建物が消え去る運命にあるため、見学客が絶えないとある。

 戦前までは、この場所には市ヶ谷刑務所があった(はずである)。
 ぼくの父方の祖父一家は、大正から昭和にかけてこの辺の官舎で暮らしていた。父は余丁町小学校に通い、姉(ぼくの伯母)は市ヶ谷駅近くの三輪田女学校に通っていたが、女学生だった伯母が下校の際にこの市ヶ谷刑務所わきを通ると、黄色い囚人服を着た囚人が道路を掃除していることがあったという。足を鉄鎖で縛られているものの、横を通り過ぎるのが怖かったと語っていた。
 赤塚不二夫の「レレレのおじさん」(?)を見ると、いつも伯母さんのエピソードに出てきた黄色い絣でほうきを掃いている囚人のことを思い出した。

 ネットで調べると、市ヶ谷刑務所は自衛隊よりもっと北の方向、現在の富久町児童公園のあたりにあったようだ。余丁町のすぐ南側である。市ヶ谷刑務所は1937年に小菅に移転したとのこと。
 極東裁判が開かれた(後の)自衛隊市ヶ谷駐屯地は、市ヶ谷刑務所よりはもっと南側にあり、かつては陸軍士官学校があって、その大講堂が極東軍事裁判の法廷として使われたらしい。
 ぼくが信濃町(須賀町)の出版社に勤めていた昭和40年代には、すでに自衛隊の駐屯地になっていた。広大な敷地を有するうえに、高い建物がなかったので、市ヶ谷駅から西の方角に向かって歩くと、駐屯地の小高い丘の向うに沈んでゆく夕陽がきれいだった。
 ※--という思い出は、市ヶ谷刑務所跡地ではなく、自衛隊市ヶ谷駐屯地の情景である。

 極東軍事裁判、いわゆる東京裁判は小林正樹監督の「東京裁判」を見たが、後には粟屋憲太郎氏の著書なども読んだ。パール判事が公判を頻繁にさぼったり、ウェッブ裁判長がしょっちゅうオーストラリアに帰国したりするなど、結構いい加減な一面を知って驚いた。
 日本人戦犯の中には、自らの保身のために、検事局の取調べで仲間の名前を100人以上も密告するヤカラがいたことなども、当時の検事調書がアメリカで情報公開されたために発覚するなど、今日では極東裁判の裏側についても、いろいろな史実が明らかになっている。
 ※粟屋「東京裁判への道(上・下)」、藤原・粟屋他「徹底検証 昭和天皇独白録」など。

 現在この建物がどうなっているのだろうと思って防衛省のHPを見ると、この敷地は現在は防衛省の管轄となっていて、敷地内に残されている極東軍事裁判に使われた法廷(大講堂)を見学することができると書いてある。
 この記事にも見学者が絶えないとあるが、極東裁判への関心か三島由紀夫への関心かはわからない。ぼくも、市ヶ谷の建物というと、極東裁判よりはバルコニーで演説する三島の姿のほうが思い浮かんでしまう。三島の小説は若い頃に「潮騒」と「午後の曳航」を読んだだけで、その後のものは読んでいないのでよく知らないが、この市ヶ谷の地を選んだ背景には極東裁判に対するアンチの気持ちがあったのだろうか。
 ぼくは、1970年代に、新宿駅の東口と西口を繋ぐ地下コンコースで、奥さんらしき女性(編集者かも)と編集者風の男性と3人連れで東口方向から歩いてくる三島とすれ違ったことがある。楽しそうに笑顔で連れと喋っていた。 

 2023年6月16日 記

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