豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

建築でたどる日本近代法史・6 旧司法省本館

2023年06月20日 | あれこれ
 
 「建築でたどる日本近代法史」第6回は旧司法省(法務省)本館である。

 出典は朝日新聞1983年7月16日付、同1986年1月12日付、同1989年12月27日付の3本(上の写真)。
 1983年の記事は「法務省本館、保存へ 赤レンガ官庁生き残り、建てた当時の姿に復元して」という見出しで、明治時代にできた赤レンガ造り官庁の唯一の生き残りである旧法務省本館が建設当時の姿に復元して保存しようという調査結果が建設省の委員会で決まったことを報じている。

 86年の記事によれば、旧法務省本館は明治19年に創設された臨時建設局(井上馨総裁)のもとで「中央官衙(かんが)集中計画」に基づき、旧大名屋敷に分散していた官庁を現在の霞が関に集中させることとし、まず国会、大審院、司法省を建設することになった。しかし条約改正の失敗で井上は失脚し、財政難から計画はとん挫し、司法省と大審院だけが完成したという(司法省は明治28年の完成)。大審院(後の最高裁)は昭和49年に取り壊されたため、旧司法省の建物だけが残ったという。
 この旧司法省本館は、関東大震災は免れたが、昭和20年の東京大空襲で外壁を残して焼失し、戦後になって、3階部分や屋根上の尖塔を撤去し2階建てとして再建された(86年の記事)。
 建築当初の建物はナポレオン3世時代のネオ・バロック風の権威主義的な雰囲気ときらびやかな屋根とアーチが特徴だった。国産レンガ建築の第1号であり、濃尾地震の被害を参考にした耐震建築の草分けでもあったという(89年の記事)。

 法務省、検察庁合同庁舎が、旧東京地裁、高裁跡地に新設されるのを契機に、歴史的建築物として、旧司法省本館が明治当時の姿に復元して保存されることになった(89年の記事)。当初の建築費用は当時の金で99万円だったが、このたびの復元費用は数十億円とも(83年の記事)、50億円超とも(86年の記事)、30億円ともいわれている(89年の記事)。
 完成後は法務総合研究所と法務図書館として使用されるとのことである(86年の記事)。

 法務省の、あの赤レンガはファサードだけが残っていたと思っていたが、これらの記事によると、東京大空襲で外壁だけが残っていたのを、戦後初期に二階建てにリフォームしたうえで、1980年代の計画によって明治28年当初の姿に復元されたということだったようだ。
 旧大審院(最高裁)も赤レンガの雰囲気のある建物だったが、今はない。ぼくの記憶に残っている赤レンガの裁判所といえば、松川事件の門田判決が下された仙台高等裁判所の赤レンガの建物の記憶がわずかに残っている。片平丁小学校や東北大学に近い、大橋に向かう路面電車の通り(広瀬通り?)に面して建っていたと思う。祖母や母は昭和30年代になっても「控訴院」と呼んでいた。

 法務省本館は、個人的には嫌な思い出しかない。かつては司法試験論文式の合格発表がこの建物の中庭で行われていた。ぼくはこの試験に3回落ちた。独学だったので、どういう答案を書けばよいのか最後まで分からなかった。7月17、18、19日という試験日も苦手だった。5月の母の日に行なわれる短答式は毎年爽快な気分で臨めたが、7月のこの時期は梅雨が明けていてもいなくても蒸し暑くて、バイオリズムは最悪だった。試験会場の早稲田大学15号館(?)にはエアコンもなく、毎年蒸しかえるような暑さの中で答案を書いた。結局、ぼくには司法試験は縁のない世界だと自覚して、3年で諦めて大学院に転進した。

 もう一つは、編集者時代のいやな思い出である。
 毎年公表される「犯罪白書」を、慶応大学の宮沢浩一先生の紹介で、法務省本館にあった矯正局に受け取りに行ったのだが、ある年応対に出てきた人物が「超」のつく感じの悪い男だった。ぼくが編集者時代に出会った中で最悪の人間だった。
 佐藤藤佐氏や竹内寿平氏など歴代の検事総長にお会いする機会もあったが、おそるおそる出かけたのだが、こちらが恐縮するくらい腰が低く、穏やかな方たちだった。
 そう言えば、法務省特別顧問室に小野清一郎氏を訪ねたこともあった。あれも本館だったろうか。刑法改正が問題になっていた頃で、彼は、平野・平場編「刑法改正の研究」が見つからないので探してくれと、初めてお会いしたばかりのぼくに仰るので、部屋の中をご一緒に探したことがあった。すぐに、大きな机の上にあるのをぼくが見つけた。かなりのご高齢だったはずだが、矍鑠とした好々爺という印象だった。

 2023年6月20日 記

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