加藤周一『高原好日』(ちくま文庫)を買った。
表紙カバーの折返し部分に著者の近影が載っている。
その写真が、中学生のころに読んだカッパ・ブックスの『読書術』をよみがえらせた。
首を傾げる角度、カメラを避けた視線など、昭和37年の『読書術』のままである。年齢を重ねて少し穏やかになったようにも見えるが、その眼光の鋭さは衰えていない。
ぼくは、2、3年前の夏の昼下がりに、追分の“追分そば茶屋”で晩年の加藤周一を見かけたことがある。
国道ではなく、追分駅のほうからの上り坂を、女性2人と一緒に店に向かって歩いてくる彼に気づいた。
「あっ、加藤周一だ」と思った。一瞬眼が合ったが、ぶしつけな視線を感じたのであろう、まさに『読書術』のあの視線が返ってきた。
この本に登場する人物のうち、ぼくがお目にかかったことがあるのは、中野好夫、川島武宜、中村真一郎、宇佐見英治、樋口陽一の5氏だけである。
中野好夫氏は、沖縄返還15周年の日弁連のパーティーの会場で見かけた。ぼくは『沖縄白書』を担当した編集者だった。中野氏はパーティーの途中で体調を崩され、救急車で病院に運ばれた。
川島、樋口両氏は編集者時代に、いずれも筆者と編集者の関係で何度かお会いした。川島さんは東大を定年後、銀座の三信ビルの中に弁護士事務所を構えていた。レトロなビルの隣のテナントは“渡辺プロ”だった。
宇佐見さんは東京のご近所で、しばしばお見かけした。行きつけの鰻やさんも同じだった。
結局、軽井沢で見かけたことがあるのは、著者ご本人を除けば、中村真一郎だけである。
何十年も前に、軽井沢の旧道を歩いていた時のことである。当時、旧道の入口近くの右手に、水野正夫が経営する“ミズノ”という喫茶店があった。
そのオープンテラスの席で、ステッキにあごをのせて不機嫌そうな顔をして、通りを歩く人の群れを見るでもなく見つめていた。
「あっ、中村真一郎だ!」と気づいて、思わず視線をとどめてしまった。目があったように思ったが、“追分そば茶屋”での加藤周一と違って、まったく何の反応もなかった。
この本によると、中村は幼少の頃から事情があって強い孤独感をもち、「孤独な群集」の一人として、「広場の孤独」を生きぬいていたという。
“ミズノ”にぽつねんと腰掛けていた中村は、まさにそんな風情であった。
この本に登場するそれ以外の人々は、同じ時期に軽井沢に滞在していたこともあるが、すれ違ったことさえない。
僕とはまったく接点のない、別世界の“軽井沢”があったのだ。
ところで、教師だった祖父も父も、軽井沢ではもっぱら本を読むか、原稿を書いていた。
電話も引かず、住所も知らせてなかったので、手紙も、東京の自宅から転送したもの以外は届かなかった。最初はテレビも置かなかった。
朝夕、散歩に出る以外は終日机に向かっていた。東京から持ってきた本をすべて読んでしまうと、父などは、ただただ「もう東京に帰ろう」と訴えつづけていた。
誰かに車に乗せてもらえないと、本を抱えて帰京できないのであった。ここは、川島武宜さんと同じである。
加藤氏とは違って、父たちが軽井沢で知人と会うことはほとんどなかった。
昭和30年前後に、父が、草軽電鉄に乗って、北軽井沢の田辺元を訪ねたエピソードが、数十年間語り継がれたほど、軽井沢での交際は希薄だった。
毎夏軽井沢に滞在する知人がなかったわけではないが、お互いに勉強の邪魔をしないように遠慮したのだろう。
学者は清貧であらねばならない、軽井沢に別荘を持つのは贅沢であり公言すべきことではないという意識が、父たちの時代にはまだあったかもしれない。
父は、軽井沢の家のことを、「山荘」とか「小屋」などといっていた。確かに「小屋」程度の建物ではあったのだが、そこには“別荘”という言葉を避けたいという気持ちが感じられた。
そんな環境だったので、僕も、軽井沢では勉強するか、本を読むしかなかった。
軽井沢に関心を寄せる人は、それぞれの思いがあって軽井沢に関心をもっている。ぼくは、他人が描く軽井沢に共感を感じたことがほとんどない。
加藤周一『高原好日』はそんな中では、別世界の話ではあるが、違和感の少ないほうだった。
“軽井沢”を描くことは難しい。
* 写真は、加藤周一『高原好日』(ちくま文庫、2009年)の表紙カバー。
2009/5/26