《 軽井沢高原バス 廃止バス停の旅・8 》
“歌鳥の里”の次は、“西区第二”。
これまた雰囲気も何もないネーミングである。
昭和32、3年頃に、南は現在の“西武不動産営業所”から、黒橋を過ぎて、北は立教女学院キャンプ場辺りまでの通りから西側一帯が「千ヶ滝西区」として、国土計画から分譲されたはずだが、その2、3年後の昭和34、5年に分譲されたのが、“あやめヶ原”から西側のこの一帯である。
そのために“西区第二”などという駅名になったのだろう。
ニュアンス的には“西区第二分譲地”である。ひょっとしたら、分譲当初、このバス停を右折した先に西武百貨店軽井沢店の支店があり、その中に国土計画の西区第二事務所があったかもしれない。だとすると、“西区第二事務所”の略称かもしれない。
かつては、このバス停の東側に森永製菓の保養所のテニスコートがあった。初めのうちはきちんと整備されていたが、ここ10年以上は放置されたままで、雑草が生い茂り、テニスコートだった面影はまったくない。
そのテニスコートの、さらに東側は、数千坪の広大な敷地を有する別荘地だった。
北側の道路に面した火山岩の門柱には、“未明荘”だか“未明山荘”だかと毛書された表札が掛かっていた。山荘の名前の下に、確か“TUTUMI”だか“堤”だかと書かれていた。
あの一族の誰かの所有地だったのかもしれない。結局建物が建つことは一度もなく、いつの間にか表札も外されていた。
さっき書いたように、分譲当初は、“西区第二”を右折した先に、西武百貨店軽井沢店の支店が作られ(支店といっても最近のコンビニほどにも品揃えのないみやげ物店程度のものだった)、東京医大だったかの診療所(これまた西武軽井沢店の並びにあった同医大の軽井沢夏季診療所の分院)まで作られたが、分譲が終わると、さっさと閉店、閉院してしまった。
モータリゼーションの普及で、中途半端な店舗や分院は必要なかったのである。それに比べると、バス路線はよくぞ今日まで維持してきたものである。こっちは、地元の小、中学生たちの通学の必要があったからだろう。
しかし、地元といっても、この辺りでバス通学する子の多くは企業の保養所の管理人の子弟だろう。厚生年金に対する締めつけが始まって以来、保養所は減少の一途をたどっており、とうとう2009年3月31日、バス路線も廃止の憂き目にあうことになってしまった。
* 写真は、“西区第二事務所”バス停。この向かい側に森永のテニスコートがあった。
* 西武不動産から送られてきた手紙には“西区第二”と表記されていたが、バス停の看板をよく見ると、“西区第二事務所”と書いてあるので、訂正しておく。
2009/4/4