豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

懐かしのスケート場

2006年02月21日 | あれこれ
 
 1. 新宿ミラノ座スケート場
 
 正式な名前は分からないが、新宿ミラノ座の1階か2階にスケート場があった。小学校2、3年生だった昭和32、3年頃ここで生まれてはじめてスケートを滑った。
 新宿駅からの道はまだ舗装されておらず、リンクの手摺り下の排氷溝の隙間から新宿の街並みが眩しくのぞいていた。リンクサイドでラスクを買ってもらった覚えがある。

 2. 代々木スケート場

 1964年の東京オリンピックのときに作られた代々木の(ぼくたちは“原宿”と呼んでいたけれど)国立競技場は冬の間スケート場として公開されていた。アシに多少の自信のあるぼくはナンパ目的でせっせとここや千駄ヶ谷に通った。
 1966年3月27日(日)の日記を見ると、滑走料200円、ラーメン70円、ガム10円、交通費200円と小遣いが記してある。その前の週に行った晴海のリンクは滑走料300円、ラーメン140円となっている。

 3. 軽井沢スケートセンター

 親戚が軽井沢の千ヶ滝に別荘を買った昭和32年からは、毎年夏休みはその別荘に居候させてもらって過ごした。近くのスケートセンターにもたびたび滑りに行った。
 “真夏の夜の夢”という渡辺プロ主催のショーが毎夏開かれ、ザ・ピーナッツやクレイジー・キャッツが出ていた。後にはタイガースが来たこともある。最初の頃は入場無料のうえに、コカコーラまでただでくれた。その頃のコカコーラは薬みたいで、子どもにはとても飲めなかった。

 4. 東神奈川リンク、松原湖

 大学ではアイスホッケー部に入った。弱小チームなのに練習はけっこう厳しく、年間100日近く反町の東神奈川リンクで夜間練習があるうえに、夏は軽井沢、冬は松原湖で合宿があった。
 1年のころは冬合宿の早朝、乾燥室のストーブに火をつけに行くのが辛かった。氷面が荒れた屋外リンクでのスケーティングもきつく、まわりで暢気にワカサギ釣りなどしている人たちが恨めしかった。

 5. 品川スケートリンク
 
 大学2年の冬、ここでの試合中にチェックを受けて転倒し、左足首を骨折してしまった。
 担ぎ込まれた北品川の病院の最上階の個室には“真夜中のリクエスト・コーナー”のDJ土井まさるが入院しており、彼が退院すると今度は“エチケット・ライオン”のCMで人気が出始めていた小林麻美がケガで入ってきた。サインを貰いに行ったが彼女は不在で、彼女のおばあさんがきし麺の出前をご馳走してくれた。

 * 写真は1969年12月の品川スケートリンク。正式な名まえは品川スポーツランドだったようだ。

 2006/2/21

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