豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

ウィーン・フィル コンサート

2008年09月23日 | あれこれ
 
 9月16日(火)のこと。

 従弟から、ウィーン・フィルのコンサートに誘われた。予定していた相方に用事ができて急に行けなくなってしまったのだという。

 およそクラシックには縁がないのだが、従弟とは久しく会っておらず、この夏軽井沢で会うこともできなかったので、せっかくの機会と思ってサントリー・ホールに出かけてきた。
 こんなプラチナ・チケットを「猫に小判」のような感じで申し訳ないのだが・・・。

 午後6時30分、ホール入り口で待ち合わせ。

 プログラムは、ハイドン:交響曲67番(以下を省略してよいのかどうかも不明)と、ブルックナー:交響曲第2番(以下同)。
 音楽については論評する資格も能力もない。しかし、CDやレコードがいかに「臨場感」を強調しても、実際の音の再現などまったく不可能であることがよく分かった。
 「臨場」するのと、「臨場感」とはまったく別物であった。「臨場感」などというものはまったくCDやオーディオ機器の評価基準にならないのではないかと思った。

 座席は、2階席、ちょうど皇太子の座った席のほぼ対面。第一バイオリンの斜め後方から、演奏者を見下ろす位置。
 指揮者(リッカルド・ムーティ)があまり指揮者らしい振る舞いをしないのも好印象。ぼくの“クラシック嫌い”は、指揮者の振る舞いの気持ち悪さと、クラシック・ファンの“御託”の鬱陶しさに由来する所が大である。
 演奏者の立ち居振る舞いも興味深かった。

 そして、観客席の面々を眺めているのも面白かった。

 指揮者か演奏者の個人的ファンらしき女性が最前列で、うっとりとした表情で聞き入っていたり、何か不満でもあるのか、腕組みしてふんぞり返って拍手もしない男、巨漢のバス奏者が登場したら大喜びしているお兄さん、退場する指揮者が2階席に向かって手を振ったのに歓喜するオバサン・・・、などなど見ていて飽きなかった。

 パンフレットを読んで意外だったのは、9月18日のプログラムに、ニーノ・ロータ作曲の“トロンボーン協奏曲”ほかが入っていたこと。

 ぼくのような門外漢にとって、ニーノ・ロータといえば“ゴッド・ファーザー 愛のテーマ”の作曲者である。ところが、彼はクラシックの演奏家、作曲家としても若くから才能を認められ、ニューヨーク・タイムズ紙で「20世紀のモーツアルト」とさえ呼ばれたという。
 クラシック界の一部には、彼のことを「映画音楽人」と揶揄する者もいたらしいが、このパンフの執筆者は、彼のことを「あらたなシンプルさ」を追求した作曲者として評価している。
 こちらを聴いてみたいところだった。

  ・・・

 余談だが、ぼくの祖父は、1929年から1931年にかけてドイツに留学していたのだが、なぜか祖父のアルバムには、当時ウィーン・フィルの指揮者だったフルトベングラーと一緒に写った写真がある。
 写真の裏面に“1929年8月、市参事官室で”と書いてある。

 祖父はドイツ滞在中、克明な留学日記を残している。
 1929年8月は1日から29日まで連日日記を書いているが、ずっとベルリンに滞在していた様子で、ウィーンを訪問したとか、フルトベングラーと会ったということは、まったく書いてない。
 生前の祖父からフルトベングラーについてのエピソードを聞いたこともない。そもそも、祖父は映画や芝居が好きで、ドイツでも映画や芝居は結構見ていたようだが、音楽にはあまり興味がなかった。
  
 日記によると、友人がベルリンにやって来たり、日本の役人が視察に来た際に、通訳代わりにベルリン案内をさせられたりしたことがあったらしい。そんな関係でベルリン市庁舎を訪問したときに、偶然フルトベングラーと同席したのだろうか。
 この時期、内務省の「スパイ的」役人の案内をさせられたことや、日本の「資本家代表の顧問」という人物に1週間近く付き合わされたことなどが記してある。
 こんな地位の人物であれば、ベルリン市庁舎の参事官室を訪問したとしても不思議はない。

 * 写真は、おそらくベルリン市参事官室にて、祖父(中央)とフルトベングラー(向かって右側。なお、左側の人物は不明)。
 

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