ユージン・コスマン楽団「別れの曲/アニー・ローリー」(コロンビア・レコード、1956年10月)を買った。
断捨離のなか、これ以上本やレコードは買わないと決めたものの、Yahoo オークションに300円(+送料140円)で出ているのを見て、どうしても欲しくなり、クリックしてしまった。
実は、つい最近になって、ネット情報で「ユージン・コスマン」というのは古関裕而の別名であることを知ったのである。
古関裕而は、ぼくの人生とともにある作曲家である。
ぼくの人生の最初の絶頂期が訪れた1964年、その10月10日(土)午後1時。前日まで降り続いた雨はその日の朝には奇跡のように上がって、晴れわたった青空のもとで、東京オリンピックの開会式が始まった。その入場行進曲が古関の「オリンピック行進曲」だった。
あの青空、国立競技場の周囲にはためく万国旗、その旗がポールに当たる音、マラソンゲートから入場してくる選手団の色鮮やかなユニフォーム、そして古関裕而作曲(指揮も彼だったのでは?)のオリンピック行進曲。
10月10日は土曜日だったが、当時は公立中学校では土曜日は登校日だった。ぼくたちの4時間目は体育の授業で、校庭の砂場で走り高跳びの測定をやっていた。4時間目が終わると、みんなすっ飛んで家に帰った。
その頃、ぼくの中学校では、下校時刻になると校内各所のスピーカーから「アニ・ーローリー」が流れてきた。土曜日の下校時刻にも流れたと思うが、あの日はそんな時間まで学校に残っているものは1人もいなかっただろう。
「アニー・ローリー」はYouTube で聴くことができるが、最初に出てくるNHK交響楽団による演奏は優雅すぎて、ぼくの思い出とは違っている。夕暮れ時の下高井戸商店街に流れる「アニー・ローリー」のほうがぼくの思い出に近いのだが、「ユージン・コスマン楽団」の「アニー・ローリー」が一番ぼくの記憶の中の「下校時刻のアニー・ローリー」に近いと感じていた。
それが実は古関裕而の編曲、演奏だと知って合点がいった。ぼくが1964年前後の月曜から金曜の午後3時半か4時だったかに聞いていたのは、まさにこの古関の「アニー・ローリー」に違いない!
ということで、「アニー・ローリー」を検索したところ、Yahoo オークションで何種類かのレコードが出ていた。一番安かったのは250円+送料180円のだったが、いかんせんジャケットが汚れていた。しかも1964年10月プレス(発売?)だったので、ぼくが1962年から1964年10月頃に学校で聴いた版(盤)ではない。
そこで、2番目に安くて、1956年10月発売と書いてあったこのレコードを買ったのである。ジャケットは映画「哀愁」の一シーンで、左がヴィヴィアン・リー、右がロバート・テイラーという。A 面の「別れのワルツ」(蛍の光)はこの映画の挿入曲だったらしい。。
ぼくは東京オリンピックの1964年(昭和39年)の夏に、リバイバル上映された「エデンの東」を見て以来、ヴィクター・ヤング楽団の「エデンの東」が気に入ってしまい、生徒会で下校時刻に流す音楽を「エデンの東」に代えることを提案したほどだった(圧倒的少数で否決されてしまったが、数票の賛同者がいた)。
しかし中学を卒業した後になってからは、「アニー・ローリー」を聞くとぼくは必ず1964年頃の西荻窪の中学校の欅林の夕暮れ時を思い起こすようになった。やっぱり下校時刻には古関裕而の「アニー・ローリー」がよく似合う。
週番で、下校時刻に教室内に残っている生徒に下校を促すために各教室を巡回していると、1年下のクラスで何度か一人だけで教室に残っている女の子がいた。今にして思うと、ぼくが回ってくるのを待っていたのではないかとも思うけれど(自惚れ?)、当時は恥ずかしさで声をかける勇気もなく、事務的に「下校時刻を過ぎたので、下校して下さい」としか言えなかった。
これが、ぼくの「アニー・ローリー」にまつわる悲恋(!)である。彼女も73歳になっているはずだが、どこでどうしているのだろうか。実名を書きたい衝動に駆られるが、彼女に迷惑だろう。ユージン・コスマン楽団の「アニー・ローリー」を聞きながら思い出にとどめておこう。
2024年6月12日 記