豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

川本三郎「老いの荷風」

2024年07月09日 | 本と雑誌
 
 川本三郎「老いの荷風」(白水社、2017年)を読んだ。
 
 永井荷風の作品を、荷風の老いと単身者という側面に焦点を当てて、「老人文学」「隠棲者文学」とみる立場から読み解く随筆集である。
 川本が、荷風作品の現場を歩き、先行書に表れた当事者の発言などを渉猟しながら分析する記述は、ミステリー小説の謎解きを読むような興趣があった。

 例えば、発禁となったにもかかわらず、少部数だけ世の中に出回った「ふらんす物語」初版本をめぐるエピソードがある(77頁~)。
 発売前(それどころか製本前)に発禁になった「ふらんす物語」が少なくとも11冊は流布していたことを川本は突き止める。流出のルートとして、出版社(博文館)、印刷所、製本業者などの関係者から流出したものが転々流通して、古本屋や屑屋などを経て現在の所有者の手に収まる顚末が追跡される。中には、検閲した側の内務省の役人が戦後になって古本屋に売ったものもあった。この手の内務省マル秘本は、ぼくも何冊か古本屋で手に入れたことがある。
 荷風が捜していたフランス語訳「聖書」を、網野菊が匿名で寄贈したエピソードもいい(107頁)。

 荷風の葬儀、通夜に参列しながら、名前を名のることもなくひそやかに去っていった謎の女性が、昭和18年以降「断腸亭・・・」に50回以上登場する「阿部雪子」だったとある(180、4頁)。
 阿部雪子のエピソードの初出は、川本が「週刊朝日」平成22年7月2日号に書いたエッセイで暗示された謎が、毎日新聞平成25年5月26日付の書評でタネ明かしされる。初出時の読者はタネ明かしまでに2年以上待たされたことになるが、本書では並んで掲載されている。
 同じく「断腸亭・・・」に登場する、荷風が浅草駅のホームで300円を渡した私娼が、後に「吾妻橋」の主人公として描かれる話(229頁)なども、荷風作品の登場人物の謎解きの趣きがある。

 荷風の最晩年に通いのお手伝いとして身の回りの世話をし(やるべき仕事はそれほどなかったらしい)、遺体の発見者にもなった福田とよという女性の消息を尋ねて、彼女を知る3姉妹に巡り合うエピソードも(143頁~。出会いのきっかけが市役所職員からの情報提供というのは減点材料だが)、川本の調査への熱意が伝わる。
 この女性を半藤一利は「文字が読めない」と書いたが、川本の会った3姉妹たちは「教養のある人」だったと言い、文字も読めたと言った。川本は3姉妹に与する書き方だが、真相は分からない。文字が読めなくても教養のある人はいるだろう。文字は読めるけれど教養のない人もいるように。

 本書に、吉屋信子「岡崎えん女の一生」という小説が紹介されている(109頁)。このエピソードもまた「事実は小説より奇なり」の面白さがある。
 吉屋は昭和38年11月の新聞で、養護老人ホームに住む岡崎えいさん(70歳)が京成線小岩近くの踏切で電車にはねられ即死したという記事を目にする。この女性は、昭和30年から生活保護を受けて老人ホームに入っていたが、かつては日本橋の料亭の一人娘で雙葉女学校出のインテリだと記事で紹介されていた。
 これに興味をもった吉屋が調べると、彼女は荷風の「断腸亭日乗」に「岡崎栄」「お艶」として登場する女性だったことが分かる。彼女は、かつては銀座の裏通りで酒場や料理屋を営んでおり、その店には泉鏡花、水上瀧太郎らのほか荷風も通っていて、店には荷風の扁額が飾られていたという。戦時中の物資不足の折には荷風に食料を送ったりしているが、空襲にあって店は焼失し、戦後は女中などをしながら最後は老人ホームで過ごした。
 「岡崎えん女」の名で俳句も詠んでいた彼女は、大木喬任(たかとう)と芸妓だった母親との間に生まれた子だったとある。

 このような事情に詳しいわが愛読書、黒岩涙香「弊風一斑 蓄妾の実例」(元は萬朝報、社会思想社、1992年)を探してみると、はたして大木が登場する(83頁~)。
 伯爵大木(67歳)は「好色家」にして、自分の子どもくらいの年齢のきよ(36歳)を妾とし、その妹きせ(19歳)も準妾としたとある。この女性のいずれかが岡崎の母親なのかは、川本と黒岩の本だけからは分からない。
 法律を専攻した者としては、大木喬任と妾との間の娘という人物の生涯には興味が湧く。
 大木は明治初期政府の司法卿として民法制定に携わった。最初江藤新平が箕作麟祥に命じて作成させた民法草案(明治11年)が、フランス民法の翻訳調にすぎるとして却下され、改めて大木司法卿のもとで、お雇い外国人ボアソナードに起稿させた原案をもとに民法草案が起草された。家族法に当たる人事編の部分は明治19年頃に完成したが、これが後に「民法出て忠孝亡ぶ」と穂積八束らに批判されて結局は施行延期される旧民法人事編の草案である(石井良助編「明治文化史料叢書(3)法律篇(上)」3頁~、風間書房、1959年)。

 ちなみに、黒岩の本には、伊藤博文、山縣有朋らの政府高官から、鳩山和夫、磯部四郎、尾崎三良らの法学者、新札で話題の渋沢栄一、北里柴三郎その他、国会議員、大臣・官僚、財界人・実業家、学者、医師、弁護士から市井の人まで500名余の蓄妾の実例が紹介してある。
 かつては「好色小説」「花柳小説」作家などのレッテルを貼られた荷風を「フェミニンな作家」だったと評価する女性評論家が登場するご時世だというから(175頁)、大木や渋沢、北里たちが妾を囲っていたことをとやかく言う時代ではなくなったのかもしれないが、紙幣の肖像にまでなるとは!ぼくは蓄妾を日本の弊風として告発した黒岩涙香の側で、こんな紙幣を使うことは愉快ではない。
 
 本書でも荷風の散歩への言及はたくさん出てくる。
 老人で単独者、食事は外食ばかり、新聞も雑誌も読まず、ラジオも聴かなかった(もちろんテレビなど見なかっただろう)という荷風は、散歩でもしなければ時間がつぶれなかっただろう。小津安二郎「東京物語」の終章近くで、妻に先立たれた笠智衆が窓から顔をのぞかせた隣人の高橋とよに向かって、「一人になると日が長うなりますわい」と独りごつ場面があった。
 笠も尾道を散歩でもすればよかったのだろうが、幸運にも彼には末娘の香川京子がいた。 

 荷風の漢語趣味(159頁、「国手」「晡下」ほか)、荷風の薩長嫌い幕臣びいきの指摘もあるが(151頁ほか)、荷風の「田舎漢」嫌いへの言及はなかった。「断腸亭・・・」に頻出する「田舎漢」という荷風の表現について(「摘録」上巻127、175、196頁、下巻67頁など)、川本はどう解釈しているのだろうか。佐賀、滋賀、新潟、石川のクォーターとして生まれた「田舎漢」の1人であるぼくとしては知りたいところである。
 どこかに「愛国心」は「田舎漢」の錦の御旗のような表現もあったが、荷風は「非国民」というレッテル貼りはどう思っていたのか。本書には、友人の宅孝二が、岡山での荷風、菅原明朗らとの疎開生活を「非国民集団のような部落」と表現したことが紹介してあった(36頁)。
 
 石川淳らが酷評した戦後作品についての川本の評価も良かった(201頁~)。
 川本が紹介する「羊羹」「にぎり飯」「買出し」などは読んでみたい気もする(川本の紹介で十分かもしれないが)。「買出し」に登場する、千葉から籠(帚も)を背負って世田谷にまで行商に来ていたお婆さんの姿はぼくの記憶にもある。「買出し」の強かなお婆さんの印象もそのままである。
 ※ 113頁の「田村水泡」は「田河水泡」の誤り。223頁の映画の公開年、「つゆのあとさき」昭和56年は1956年、「踊子」昭和57年は1957年、「裸体」昭和62年は1962年の誤りである。

 2024年7月9日 記
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