佐藤春夫「小説永井荷風伝 他3篇」(岩波文庫、2009年。単行本は新潮社、1960年)を読んだ。
佐藤春夫の書いたものを読むのは初めてである。若い頃はまったく関心がなかったが、今回は荷風への関心から読んでみることにした。
慶応義塾予科での出会いから、市川での葬儀、雑司ケ谷での納骨までを描く。たんなる評伝ではなく、語り手であり登場人物でもある佐藤による小説というより回想録のようなもの(佐藤の頻用する言葉でいえば「あんばい」)である。
荷風自身が記述するところ、巷間に流伝するところ、佐藤自身が見聞したことを三脚として、これに真偽定まらぬ伝説、佐藤の感情移入、思い出などを交えて書いたことが「小説」を標榜した所以のようである。中村光夫との論争で表明した「荷風=エディプスコンプレックス説」などはエピソードの一つに過ぎない印象だった(88頁~)。
佐藤は、荷風を「自叙伝作家」とでもいうべきものであるとし、その「作品史」がそのまま「伝記」と精妙な一致をみるという。ただし、佐藤のこの評伝はなぜか「断腸亭日乗」をほとんど援用しない点で、他の評伝に比べて出色である。「日乗」から援用を始めると「日乗」の摘録になってしまうからではないか。
佐藤は、少年時代から文学者としての荷風に心酔し、慶応予科では学生として謦咳に接し、その後も「荷風読本」の編者に推挙されるほどの信任を得ながら、やがては子弟の縁を切られるという数奇な関係を閲している。評伝を書くにふさわしい著者である。
佐藤の見立てでは、荷風は、一方では都会の育ちのよい律儀で礼儀正しい純粋な性情の人間であり、もう一方では、その良家、厳父の桎梏からの解放を願った反社会的人間でもある。また、一方で天性の詩人にして、もう一方で「異常な色情の人である」(12頁)という。
荷風にまつわるエピソードの取捨や評伝全体からも、上のような荷風の二面性が浮かび上がってくる。佐藤の筆からは、荷風に対する強い憎しみも感じないかわりに、強い哀惜の念も感じられない。そういう意味では公平な評伝という印象を得た。
以下エピソード風に印象に残ったことをいくつか記しておく。
「花火」における幸徳秋水の大逆事件を契機に戯作者になったという荷風の言葉を額面通りに受け取るべきではない、自ら流布した伝説であるという説を卓見という(68頁)。
芥川が偏奇館の文学は「西遊日誌抄」にとどめを刺すとして、(昭和初年には)荷風を無視したこと、文士は閑居してゴシップを好む者たちであり、芥川門下と同様「日乗」にも度々出てくるように荷風もゴシップ好きだったという(96頁)。
荷風が社会や政治に関心が深かったことを示すエピソードとして、何かの折に「近衛文麿はだんだん悪相になって行くね」と語ったという。近衛の顔の変化など、きちんと新聞でも読んでいないと分からなかっただろう。先日NHKテレビ「映像の世紀」で、近衛がヒットラーに扮した写真を見たが、「悪相」というより呆れ果てた。
現地を見ないかぎり執筆できないという荷風の実地踏査主義の結果として、荷風は(売春に関する)一種の風俗史家ということができると佐藤はいう(124頁)。また、「大久保だより」や「日和下駄」などは「東京歳時記」というべき作品であり、荷風の東京風土研究であるという(併載の「永井荷風」273頁)。
荷風が戦後に一時期寄寓した小西茂也が深川あたりの米問屋の裕福な息子で、最初は荷風の崇拝者だったが、自宅の空部屋を提供して同居するうちに幻滅し、荷風が死んだら全て暴露すると宣言しつつ(佐藤も出席した「三田文学」の座談会でそう宣言した)、荷風より先に亡くなってしまった(173頁)。小西の暴露は何かで読んだような気がする(小西の家屋の室内で七輪で古原稿を燃やしたという話が出ていた)。ぜひとも暴露話を読みたかった。
荷風の偽書事件などをめぐる平井程一らとの一件について佐藤は、紀田順一郎「日記の虚実」とは違って、平井らを悪者として描いている。平井ら二人は一時期佐藤のもとにも出入りしていたという。筆先は荷風との関係を取りなすよう佐藤に依頼したことがあったというKにも及ぶ(132頁)。Kは久保田万太郎らしい。
佐藤が荷風に縁を切られたのは、「荷風読本」(三笠書房、昭和11年)の印税をめぐってであるという批判に対して、佐藤は「日乗」にある三笠書房との紛糾の内容は採録する作品をめぐっての対立であり印税の問題ではないと反論し(144頁)、佐藤が戦時中の言動を理由に荷風から排斥されたのは昭和16年のことであると訂正する。
半藤「荷風さんの昭和」でも引用していたが、本書でも、佐藤が荷風を「規格外の愛国者」であると評したことが荷風の不興を買った原因だったとして、「日乗」の同年5月16日付の記事を援用している(146頁)。荷風は「日乗」で佐藤を「田舎者」と書いているが、「田舎者」は荷風最大の蔑称である。佐藤は戦後になっても、荷風は国土を愛し、国語の純化をこころざした「愛国者」であったと信ずると書く(1960年)。ただし、佐藤は、荷風の不興を買った戦時中の言動のうち、壮士然として皇道文学を吹聴したことなどについては黙している。
なお、併録された「永井荷風」によると、米仏から帰朝した荷風は一部ジャーナリズムから「非国民」呼ばわりされたというが、ここでも佐藤は、荷風を「故国に文明を切望する無二の愛国者であった。・・・ただその愛国の観念は軍人と同一でなかっただけである」と書いている(259頁~)。佐藤はどこまでも荷風を「愛国者」にしたいようである。戦時中に「非国民」呼ばわりされた荷風(併載の「最近の永井荷風」219頁)を佐藤は「汚名」と考え、何とかその汚名を雪ぎたいと思っているようだが、荷風本人は「非国民」呼ばわりなどむしろ名誉とさえ思っていたのであり、「愛国者」などと呼ばれることこそ不本意、不愉快なことだっただろう。
荷風の文化勲章受章、芸術院会員就任を正宗白鳥が皮肉ったらしいが、佐藤も受賞は不当ではないが不自然だったと書く(165頁)。久保田万太郎の推挙によると何かに書いてあったが、佐藤もKの推挙であると書いている(194頁)。芸術院会員も文化勲章も兎角の噂がたえない賞だから、荷風に限らず誰が受賞しても異論は起こるだろう。正宗も佐藤も久保田も(!)文化勲章を受章したらしい。
荷風の不遇の死を、佐藤は「宿望たる陋巷の窮死を自然死の利用による自殺」の遂行であったと見る(188頁)。その葬儀をKが取り仕切っていることを同道した瀬沼(茂樹?)は不快に思うが、佐藤は誰かがやらなければならいのだからよいではないか、と取りなしている(192頁~)。その席で、弟威三郎が荷風に仇敵視された理由に思い至っていないことを知り、気の毒に思うと書いている(196頁)。
巻末に荷風に関する佐藤の小論3篇が併録されている。「永井荷風ーーその境涯と芸術」は荷風生前に書かれた評伝だが、「あめりか物語」から「濹東綺譚」に至る初期作品の中から当時の荷風の真情が現われた個所が引用されていて、読まずに済ますことができた。ちょうど川本編「荷風語録」によって戦後に発表された作品を読まずに済ますことができたのと同様である。
それにしてもなぜここまで荷風に引きずられるのか、我ながら不思議である。川本さんに始まって、吉野、半藤、紀田、秋庭、平野、佐藤と芋ずる式である。
もうそろそろ、平野謙「昭和文学私論」で興味をもった高見順、尾崎一雄あたりに乗り換えていいだろう。
2024年10月15日 記