豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

尾崎一雄「あの日この日(上・下)」

2024年11月06日 | 本と雑誌
 
 尾崎一雄「あの日この日(上・下)」(講談社、1975年)を図書館で借りてきて、ざっと読んだ。尾崎が70歳をこえてから、「群像」に昭和48年12月号まで4、5年にわたって連載したものを大幅に修正したのが本書である。

 尾崎の書いたものは「単線の駅」という小田原での身辺雑記のような小説(随筆だったか?)でけしか読んだことしかない。彼は、大正末期から昭和初年にかけてはプロレタリア文学にも新興芸術派にも属さず、戦時下には戦争文学にも走れなかった少数派(私小説派?)と自己規定する。そして「文学を志して力及ばず、空しく山麓に眠る多くの人・・・、三合目、五合目に至って敗退した人・・・、離反して、他の仕事に走」った人たちなど、身の回りで出会った「無名戦士」たちの夢の跡を訪ねずにはおれなかったと本書執筆の動機を語っている(下428頁)。
 平野謙「昭和文学私論」を読んで本書を知り、上のような執筆動機に魅かれたのだが、平野によれば、尾崎自身が志賀直哉に傾倒するあまり危うくその裾野で潰え去りかかった一人だったという。「山麓に眠る」人々を語るにふさわしい筆者だったのだろう。
 大正5年に「大津順吉」を読んで以来志賀直哉に私淑し(後に奈良で面会がかない、それ以降は知己を得ることになる)、小田原の中学校を出て上京し、神官だった父親の「東大の国文科か皇学館に行け」という意向に反して文学を志し、大正9年に早稲田高等学院に進学した頃から執筆活動をはじめた尾崎の自伝的記述とともに、学院の「学友会雑誌」から、後には「早稲田文学」をはじめたくさんの同人誌にかかわる中で出会った作家志望の若者から志賀直哉、菊池寛、尾崎士郎らの大物まで、まさに文学者「群像」が描かれる。その数は正確に数えてはいないが、数百人に及ぶだろう。下巻の巻末に全登場人物の人名索引がある。

 ぼくが知っている最初の登場人物は野村平爾である(上18頁)。野村さんは早稲田の労働法の教授だったが、ぼくが就職した出版社の編集部長が野村門下で、わが社の(というかその部長の)編集顧問的な地位にあったようで、入社初日の1974年4月1日に、ぼくはその部長に連れられて世田谷区豪徳寺にあった野村先生のご自宅にご挨拶に伺った。社会人になった初日に、自分が生まれ育った豪徳寺に出向き小田急線豪徳寺駅に降り立ったときには不思議な気持ちがした。ただし本書で登場する野村さんは労働法学者としてではなく、早稲田学院の陸上中距離選手としてであった。そういえば、たしか野村先生はベルリン・オリンピックか何かに出場したと聞いたように思う。
 その次は千種達夫である。学院の「学友会雑誌」に尾崎らと並んで名前が見えるが(49頁)、千種(ちぐさ)は後に裁判官になる。戦時中には満州の家族慣行調査に従事したり、松本地裁(区裁?)判事時代には判決文の口語化運動を起したりとユニークな裁判官だったが、そのルーツは学院時代にあったのだろうか。

 大正12年、当時奈良に住んでいた志賀直哉を尾崎が初めて訪問した際、最初に応対に出たのが志賀邸で書生をしていた瀧井孝作だった。ぶっきら棒な瀧井に対して、岐阜県人のための飛騨学寮に友人が住んでいると尾崎が言ったところ、(岐阜出身の)瀧井が「あしこには僕もいたことがある」と答えた、確かに「あしこ」と言ったという(67頁)。それから二人の会話は打ちとけるようになった。
 軽井沢滞在中の志賀を尾崎が訪ねる場面もあった。昭和2年のこと、尾崎は「星野温泉の星野屋という旧式の宿屋で一夜を過ごし」、翌日「千ヶ滝のグリン・ホテルの志賀先生をお訪ねした」のだが、志賀は所用で東京に帰っており、翌日こちらに戻るが「お宿は沓掛の環翠楼になる筈」とホテルの従業員に言われ、環翠楼に回って部屋を確保し、翌日志賀と面談している(上356頁)。沓掛には吉岡弥生の病院の千ヶ滝分院があって志賀夫人が入院中であるとも聞かされる。
 星野温泉は最近では「ほしのや」と称しているようだが、「星野屋」はもともとの屋号だったのだ。「環翠楼」とあるのは、かつてぼくも泊まったことのある「観翠楼」ではないだろうか。屋号を変えたのか尾崎が誤記したのか・・・。千ヶ滝に吉岡の(女子医専の)病院があったとは!
 撞球屋で出会った後輩の丹羽文雄が「芥川、佐々木茂索を読んでいる」と言ったのに対して、尾崎は「危ない」と思った。そこで尾崎は、彼らは「うまい作家だ。しかし彼らのうまさは都会人の持つ神経に拠っている・・・若いうちに彼らに深入りするのは、あまりに早く自分を限定することになる。・・・志賀直哉を読むべきである・・・」と助言したという。丹羽は「よっしゃ!志賀直哉」と答えて志賀作品に喰らいつき、筆写までしたという(上277頁)。その後も尾崎と丹羽の交友はつづき、丹羽の「鮎」の出版祝賀会の当日に生まれた息子を尾崎は「鮎雄」と命名した(下287頁)。

 昭和6年頃、結婚をして生活に困っていた尾崎を救済すべく、志賀は西鶴の現代語訳の仕事を尾崎にあてがう。尾崎は訳業を完成させるが印税のことを直接出版社に打診したことなどから志賀の不興を買う(下120頁)。改造社版の「志賀直哉全集」(いわゆる円本か?)の編集も任されたが、ここでも大誤植を見落としてしまう。志賀は小林多喜二の刻苦勉励の生活ぶりを例に挙げて尾崎を叱責した(下115頁~)。小林多喜二が志賀の熱心な読者で、両者の間に交流があったことなど(下153、160頁ほか多数)、文学史上有名なエピソードらしいが、ぼくはまったく知らなかった。
 数年間の緘黙生活の後に、尾崎は復活して昭和8年に短編「暢気眼鏡」を書き上げる。瀧井経由で文藝春秋に持ち込むが放置されているうちに、早稲田の後輩が「人物評論」という雑誌を立ち上げ尾崎にも原稿依頼に来る。尾崎は「暢気眼鏡」を文春から引き上げて「人物評論」に掲載する。やがて単行本化されて砂子屋書房(この本屋もよく出てくる)から刊行された「暢気眼鏡」は昭和12年に第5回芥川賞を受賞することになる(下225頁)。

 全体を通して(とくに下巻では)志賀直哉との関係が底流になっている。
 尾崎の回顧は原則として年代順なのだが、頻繁に時代が前後する。同じ話題があちこちで何度も繰り返されることもある。とくに連載中だった昭和46年前後には志賀をはじめとして、多くの先輩や同志が鬼籍に入る。
 昭和3年、左翼と別れた右派が団結して紀伊國屋書店の田辺茂一の援助で「文藝都市」を刊行した話から、その稿を書いていた昭和46年に話が飛ぶ。その年の11月19日に阿川弘之から(志賀危篤の)電話があって上京し連載執筆のためにいったん帰宅するが、翌々日に志賀が亡くなった知らせが阿川夫人からあって再び上京する(上385頁~)。このあと上巻の残りの大部分は志賀の思い出に費やされる。志賀が亡くなったのは関東中央病院とある。ぼくの所属した研究会の先輩にこの病院の脳神経外科部長だった方がいた。用賀にある病院だが、晩年の志賀は世田谷に住んでいたから近くの病院だったのだろう。
 早稲田学院以来の友人で早稲田の独文の教授になった中谷博との交流とその死、困窮時代に近居した白井弘夫妻・親子との交流や白井の死のことなどは(下126頁~)しんみりさせられる。中谷だったかとの間には100数十通の手紙の交換があったようである。筆まめなことにも感心する。さすが物書きである。

 本書によって文学史上に名を遺すことになった「山麓に眠る」文士たちも以って瞑すべしというべきだろう。ぼくも文学ではないが、その道を「志して力及ばず、空しく山麓に眠る」ことになる一人だが、誰か覚えていてくれる人はあるだろうか。

 2024年11月6日 記
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