豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

建築でたどる日本近代法史・5 旧陸軍大学校舎 

2023年06月18日 | あれこれ
 
 今回は、日本「近代法史」にぴったりという訳ではないが、個人的に懐かしい港区青山の青山1丁目交差点の近くにあった陸軍大学の建物。
 2・26事件の際には、陸大の中にも決起を促す学生がいたというから、2・26事件における「戒厳令」発令という意味では、「日本近代法史」とまったく関係がないとは言えなくもない。

 出典は朝日新聞1983年2月23日付の記事(上の写真)。
 「昭和史の舞台降りる “旧軍の象徴” 陸軍大学」という見出しで、かつての陸軍大学の建物が、取り壊されることを報じている。
 記事によれば、陸軍大学は明治16年に開校し、昭和9年に現在の(1983年当時の)建物が建てられたという。敗戦によって日本陸軍は解散させられ、陸軍大学も廃校となったが、この建物は昭和29年(1954年)からは港区立青山中学校の校舎として使われてきたという。
 三階建てだが、高さは戦後に建てられた校舎の四階に相当するとある。天井の高さが3メートル近くあったのだろう。どこかの建設会社か不動産屋のテレビCMで、「人を育てるには、天井を高くしろ!」というのがあったが、戦前の日本では(少なくとも陸大の校舎に関しては)そういう気風があったのだろう。そういえば、大隈会館(旧大隈重信邸)のホールの天井も高かった。

 ぼくは1974年に信濃町にあった出版社に入社し、編集者になった。仕事帰りに仕事仲間たちと、青山1丁目のホンダ本社の裏通りに面したマンション1階にあった “ウォーキン” というスナックに呑みに行った。オーナーが信濃町で喫茶店をやっていた頃からの知り合いで、開店時から通った。キープしたボトルのナンバーは79(泣く?)だった。
 時には須賀町から外苑東通りを連れ立って歩いて行くこともあった。
 左門町バス停前から、信濃町教会、博文堂書店を左手に、右手には東電病院、慶応病院を見ながら、信濃町駅前を通り、明治記念館、権田原、東宮御所を左手に眺めながら外苑の緑を歩くと、青山1丁目交差点の手前、右手奥に青山中学校があった。レトロな建物が印象的だったが、当時はそれがかつての陸軍大学の校舎だったとは知らなかった。
 ぼくが同社を退職したのが1983年だったから、ちょうどぼくが退職して信濃町とは縁がなくなってしまった頃に、陸軍大学の校舎だった建物も取り壊されたことになる。
 昭和40年代には、そのようにしてまだ戦前の建物が利用されていたのだ。

 平成になってからも(コロナ前までは)、青山1丁目にある(かつて在職していたのとは別の)出版社に年に2回定期的に出かけたが、新しい青山中学校の校舎を見た記憶はない。あの辺をぶらぶら信濃町駅まで歩こうという余裕も体力もなくなり、仕事が終われば青山1丁目駅から大江戸線に乗ってさっさと帰宅するようになってしまった。
 “ウォーキン” も閉店してしまったと数年前に聞いた。

 ・・・と、今回はやっぱり「日本近代法史」というよりは、「ぼくの気ままな nostalgic journey 」になってしまった。

 2023年6月18日 記

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