豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

朱牟田夏雄 『英文をいかに読むか』

2020年08月01日 | 本と雑誌
 
 朱牟田夏雄 『英文をいかに読むか』(文建書房、1959年)を表題にすべきか、アルダス・ハクスリー「辞書の中のいたずら書き」(朱牟田氏の訳では「辞書の落書き」)を表題にすべきか迷った。
 いずれにせよ、朱牟田氏の同書に収められたハクスリーのエッセイ(Aldous Huxley,
“Doodles in the Dictionary”)を読み始めた。

 受験生時代に買ったままにしてあった本である。
 最初に英文読解の極意のようなことが数十頁あって、後には、Toynbee, Maugham, Russell, その他一時代(の受験界)を風靡した定番の作家たちのエッセイの一節が掲載され、解説(訳注)と邦訳がつづき、最後に作品研究としてハクスリーのこのエッセイが全文掲載されている(これにも訳注と邦訳がついている)。
 
 未読の本を片づけようということ(だけ)を目的にした読書の一環として、ふと本棚で目に留まって読みだした。
 題名に興味をもったのが動機である。「辞書の落書き」とはなんだろうか。

 “ doodles ” から辞書を引き始めた。
 ジーニアス英和大辞典(大修館書店)では、(名詞)1いたずら書き、2(小児語)ちんちん(penis)、3(俗語)がらくた、くそ、排泄物とある。なお(動詞)として、1(考え事をしながら)いたずら書きする、とある。
 
 名詞の、いたずら書き、ちんちん、くそというのは一体どのような歴史をたどって、こんなことになったのか? いたずら書きの代表はちんちんとくそということなのか? こういう転義を調べるのに便利な辞書はあるのだろうか?

 動詞の方も、考え事をしながらのいたずら書きと、そうでない時のいたずら書きをなぜ区別するのだろう? 後者のいたずら書きに当たる英語は何なのか? 
 ぼくの知っているいたずら書きに対応する英語はただ一つ、映画「アメリカン・ グラフィティー」の “ graffiti” だけである。“ graffiti ”(グラフィティーが複数形で、単数形は“ graffito”ということも今回初めて知った)を念のため引いてみると、「(壁や便所などの)落書き」とある。
 便所の落書きだと “ doodle ”と違うようにも思うが、しかし便所でだって人は「考え事をしながら」落書きをすることはあるだろう。ウィズダム英和辞典(三省堂)でも “ doodle ” の動詞は、1(考え事をしながら)いたずら書きをする、2つまらないことをする、となっている。
 おそらくもとになった英語の辞書に“ doodle ”の意味として、「考え事をしながら」のいたずら書きという限定が書いてあるのだろう。

 いずれにせよ、ハクスリーが書くのは “ doodle ” であることは、上記の辞書が説明する語感から何となく理解できる。

                 

 今日の午後、相撲中継が始まるまで10ページほど読んだ。
 実は今年の1月初旬に骨折のため入院し、毎日テレビで初場所の中継を見ていて、ぼくは朝乃山のファンになったのである。
 相撲など久しく見ていなかったのだが、入院生活の退屈な午後を過ごすにはテレビで相撲でも見るしかなかったのである。若手の力士など顔も四股名もほとんど知らなかったのだが、けっこう「お相撲さん」らしい相撲取りがいて、大いに時間がつぶれたのだが、その中でも朝乃山がごひいきになった。
 ちなみに、子どもの頃のぼくは松登と房錦のファンだった。前にも書いたような気がするが、貸本屋で「褐色の弾丸 房錦」という本を読んだのだが、「褐色」とは何だろうと訝しく思ったことを今でも思い出す。色黒で素早い取り口の力士だったのだろう。
 思い起こすと、「少年サンデー」か「少年マガジン」の創刊号の表紙は(先々代の)朝汐(朝潮に改名していたかも)だった。朝乃山はその弟子の弟子くらいのはずである。

 閑話休題。

 ハクスリー「辞書の落書き」の意味は10ページ読んだいまの段階ではまだ不明である。
 話はハクスリーのイートン校時代の思い出から始まる。
 当時のイートン校では、古代人(古典人)と同レベルでラテン語、ギリシャ語を読み、書き、話せるようになることを目標にしており、ハクスリー少年はひたすらラテン語、ギリシャ語の辞書を引き続け、優秀生徒として表彰もされたという。
 その苦痛は、ラテン語辞書の編者であるスミス博士を恨めしく思うほどで、後年、馴染みの古本屋から「興味深い本が入った」と連絡を受けて出かけてみると、それがラテン語の辞書(羅仏辞典)だったというだけで、地下鉄駅の(排気孔)の空気を吸わされた時のような不快を感じたのであった。
 それでも、ひとはその人生のなかで興味もない嫌な仕事でもしなければならないのだから、人生の初めにそのような修行を経験することに意義があるという。楽しいこと、有用なことばかり教授している進歩的学校(“ progressive school ”)は愚者の楽園にすぎないと批判する。
 
 大学1年生のフランス語で、メリメやドーデを読まされた頃のことを思い出した。残念ながらぼくはハクスリーのように、将来の自分にとって役に立つ修行だとは思えなかったし、今でもそうは思えない。
 
 さて、次のパラグラフから、いよいよ「辞書の落書き」が出てくるようである。
(つづく)。

 
 2020年8月1日(梅雨明け) 記 


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