円覚寺の夏期講座に今年も参加しました。足立大進老大師の講話のあと、2名の講師の方たちのお話があります。それが4日間続きます。全部出席したかったのですが、用事等もあり、はじめの2日間だけ受講しました。心に残る話ばかりでしたので、これからときどき紹介していきたいと思います。
今日は、オリンピックに女子マラソンが初めて採用されたロス大会に出場された増田明美さんのお話です。ボクは女子マラソンが大好きでテレビ実況放送は必ず観ていますが、解説者ではやっぱり増田明美さんがピカイチだとかねがね思っています。声がいいですね、顔もですが(笑)。名解説者は名講演者でもありました。
オリンピック出場が決定してから、増田さんは極度の不振に陥ります。暑さ対策として沖縄での練習が裏目に出て、体調をくづしてしまい、地元の高校生にも負けてしまうほどの状態でした。それなのに、大会は近づいてくる、周囲の期待は高まる一方です。身も心も細る一方で、もうこの世の中から消えてしまいたいという気持ちにまでなってしまいました。そんなとき、成田の出身高校での壮行会が計画され、その当日、こんな行動をとってしまったのです。
ここで、はじめにお話した、鎌倉との縁が出てくるんですよ、と増田さん。壮行会に出るつもりが、ふらふらと成田の駅へ。ちょうど来た電車が久里浜行き、それに飛び乗ってしまいました。駅構内で鎌倉のポスターをみたばかりでしたので、そうだ鎌倉に行こう、と。そして鎌倉に着いて、カツドンと親子丼を食べて(当時食事制限もしてたそうですがそれも破り)、そして江ノ電にのって海辺に出て、長い間、ぼおっとしていました。
それでも、家族や関係者の励ましでオリンピックには出場します。メダルはいい、完走すればいい、と思ってスタート。しかし、いつもの先行逃げ切りのくせが出て、いきなり、トップギアーで走り、4キロまでトップ独走になってしまいました。しかしその後、第一集団に追いつかれ、離されてゆく、あとから来た佐々木七恵さんにも抜かれてしまう、そしてとうとう走れなくなり16キロで脱落してしまいます。目標の完走さえ出来なかったのです。
この日から4年間、増田さんは走れなくなってしまったのです。挫折です。”マラソンは長い、人生はもっと長い、頑張ってください”等の励ましの手紙にずいぶん慰められたそうです。でも、このままではダメになる、増田さんは1988年の大阪マラソンに出場する決心をして、練習を再開しました。
完走して、新たな人生の第一歩を踏み出したい、これが大阪マラソン出場のテーマでした。でも、これはオリンピック出場選考会でもありましたから、周囲はそうゆう目でみていました。第三集団で走っているとき”何やってんや、あほ”の声が聞こえたり、27キロ地点では”増田、もうおまえの時代は終ったんや”のきつい言葉。その瞬間、足が止り、歩いてしまいました。もう止めよう、と地下鉄の駅を探していました。
そのとき、うしろから来たランナーに”一緒に走りましょうよ”と肩をたたかれました。そうだ、私は完走を目指していたのだ、ここで脱落してしまったら、変われない、弱い自分のままでおわる、気を取り直し、増田さんはまた走り始めたのでした。そしてゴールが近づいてくる、2キロ手前からもう、涙が止りませんでした。そして、完走。これで自分が変われる、新しい自分に生まれ変わられる、もううれしくて、うれしくて、ほんとに涙が止りませんでした。とうとう復活できたのだ。
翌日の新聞。”増田、くやし涙にくれる”大見出し。以前の自分なら、キッとなるところですが、新しく変わった自分は、笑ってすませるようになっていたそうです。
その後の彼女の活躍振りは目を見張るばかりです。講師のプロフィルをみると、大阪の芸大教授とか文科省の審議会委員などもされているようです。飛躍には大きな挫折が必要なんですね。挫折している方、心配いりませんよ、すぐそこに大きな飛躍が待っています。
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最近、スイスで合宿している野口みずきさんに会ってきたそうです。絶好調らしいです。北京五輪が楽しみですね。増田さんは、テレビ実況の解説ではなく、ラジオの方だそうです。テレビ画面をみながら、ラジオの解説を聞こうかな。