
昨年は、旧東海道の保土ヶ谷から小田原までの東海道のすべての宿場町を踏破しましたが、久し振りに東海道を歩いてみました。川崎はボクが青少年時代を過ごし、現在も実家のある、いわばホームタウンですが、六郷橋から八丁畷までの、川崎宿が存在した旧東海道を通して歩いたことはありませんでした。
まず出発点の六郷橋に。

慶長5年(1600)に六郷橋が造られたのですが、元禄元年(1688)に大洪水で流され、それ以降、江戸時代は多摩川を舟で渡るようになりました。広重の東海道五十三次にも”六郷の渡し”が描かれています。

川崎宿にはおえらいさんが宿泊する本陣が3つ、一般の人が宿泊する旅籠が62軒もあったそうです。また茶屋もあり、六郷の渡しの近くの”万年”の名物”奈良茶飯”が有名で、弥次さん喜多さんも食べたようです。今はその名残もありません。
しばらく歩くと、本陣跡の碑が。田中本陣、下本陣とも言われたそうです。ちなみに上本陣が佐藤本陣です。保土ヶ谷宿の本陣は、現在もその地にご子孫の軽部氏が住んでおられますが、ここではどうなのでしょうか。
田中本陣跡

佐藤本陣跡。向いに作詞家、佐藤惣之助の生誕地の碑があり、♪青い背広で心も軽く・・♪の有名な歌詞が刻まれていました。人生劇場、人生の並木道、湖畔の宿、赤城の子守歌、等名曲の詩をたくさんつくられました。この佐藤本陣の流れの方だそうです。

ボクは宿場町で、一番関心をもって捜し回るのは、旅籠屋の飯盛女(遊女)の御墓です。遊女が好きだとういうわけではありません(汗)。彼女たちの多くは貧農の出で、生活のために身を売られ、悲しい人生を送ってきた方です。こういう方たちを現在も手厚くほうむるお寺をみつけると、心がなごみます。宿場町に、こういうお寺をみつけることは意外に少ないのです。藤沢宿の永勝寺が一番です。たくさんの飯盛女のお墓には感動しました。大磯宿にもありましたが、ここ川崎宿でも見つけ、うれしくなりました。それは、東海道沿いにある宗三寺というお寺の墓地にありました。

まだまだ、紹介したいことがいっぱいあるのですが、そろそろ出かけなければなりませんので、京急の八丁畷駅付近の芭蕉の句碑でおわりにします。元禄7年の5月江戸深川の庵から郷里伊賀への帰途、川崎宿に寄り、ここで弟子たちと別れるときに詠んだ句だそうです。実際の詠んだ句の場所に句碑があるのは大変珍しいらしいです。
麦の穂をたよりにつかむ別れかな

芭蕉は、その年の10月、大阪で51歳の生涯を閉じました。
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる