気ままに

大船での気ままな生活日誌

長谷川等伯展 in 東博

2010-03-07 11:56:11 | Weblog
2年ほど前、東博で、”対決 巨匠たちの日本美術”展があった。快慶対運慶、雪舟対雪村、宗達対光琳とゆうふうに巨匠対決させた、面白い企画だった。そのときの、長谷川等伯の対戦相手は狩野永徳だった。その感想を本ブログにも書いている。粋な企画展の感想文として、こちらも、粋に(?)応じ、大相撲対戦のような感想文を書いた。その展覧会では、永徳の作品が”桧図屏風”で、等伯は、今回も展示のあった”萩芒図屏風”だった。ぼくは、この対戦を”突き落しでの等伯の勝ちとした。判定理由はこうだった(笑)。

”永徳関、桧図屏風の力強い寄りで一気に、土俵際まで追い込むが、等伯関の咄嗟の萩すすき図屏風の突き落としで破れる。確かに、あのすすきと萩は良かった。でも、勝負の後のにらみ合いは、どうですかね、北の冨士さん。永徳関、いつも等伯関と対決するときは血圧が異常に上がるらしいな、土俵上のにらみあいは問題ないよ。格闘技なんだから、土俵内ではいつも真剣勝負さ、その気持ちが正直に現われただけだよ、品格がどうのこうの言うヤツもいるが、全く関係ないよ”(2年前の朝青龍関のことかな;笑)

能登の七尾で仏画を描いていた等伯は、養父母の死を機に、33歳で上洛する。京には4歳年下だが、大横綱、永徳が権勢を誇っている。朝青龍のような力のある、等伯は果敢に永徳に挑む。大徳寺塔頭、三玄院に住職が留守中に無断に入り、桐の絵柄の入った襖に一気加勢に”山水図”描いたりもした(笑)。永楽との対決が頂点に達したのは、天正18年、等伯52歳のときである。内裏の”対屋”の障壁画の注文を受けたのを、永徳が激怒し、裏に手を回し(今の政治家と同じだな)取り消さしてしまうのである。この心労がたたって、その直後に、永徳は48歳で急逝してしまう。

それ以降、秀吉や千利休に重用されるようになり、次々と、金碧画そして水墨画を、またモチーフも、仏、人物肖像、花鳥、動物、風景と多岐にわたり、天下一の絵師といわれるまでになった。しかし、私生活では不幸が重なり、前述の相次ぐ養父母の死、そして妻妙浄を亡くし、さらに才能のあった息子、久蔵が26歳で夭折する、後妻の妙清も45歳で他界する。天才の生涯にはよく不幸がつきまとうが、等伯も例外ではなかった。

ここまで書いて、NHKの日曜美術館の”長谷川等泊”が始まったので、インターミッションに入ります。・・・・・(1時間経過)・・・

なかなか面白かった。東博で展示されていたものも多く含まれていた。その画面の写真等を利用しながら、以後、感想を述べてみたい。

どれもこれも、ぼくにはよくみえてしまうが、それでも、あえて、とくにとゆう作品を順不同で紹介することにしたい。後述するが、松林図屏風は、ぼくのような素人がみても、一番感動した絵だったが。

まず、”巨匠対決展”にも出場した、”萩芒図屏風”萩の葉がみな同じ形なのに、全体としてみると、とても感じよい。隣のすすきも心地よい秋風がふきぬけている。ああ、こんな屏風を飾った部屋でおせんちゃんと秋の夜長、一献傾けたいな(汗)。


国宝 ”楓図壁貼付” ちらしの表紙を飾った名品。楓だけでなく、余白に咲き誇る草花もすばらしい。テレビの解説者が楓の葉が緑、黄、赤と変えてあるのは、命のはかなさを表したものではないだろうかと、言っていた。そうかもしれない。息子を亡くした頃の作品なのだろうか。


”山水図襖”これが住職のいない留守に勝手に上がり込んで描きあげたとゆう、いわくつきの作品。桐の図柄を雪に見立てての風景画。今なら、ヒンカクない絵師だと、あほマスコミにたたかれるだろうな(爆)。この写真は芸術新潮の今月号からのもの(長谷川等伯特集)。また、買ってしまった。


これも好きな作品。おせんちゃんの柳腰のようで、触ってみたかった(爆)”柳橋水車図屏風”。みんなが言うように、デザイン性のある絵だ。柳のしだれ、川の流れ、橋。

。。。

これから、うんめんをいただき、その後、氷雨の中、市内ハイカイの予定ですので(汗)、ここでまた長いインターミッションに入ります。つづきは次回に。




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