気ままに

大船での気ままな生活日誌

八幡様御神木 大往生

2010-03-10 21:44:28 | Weblog
ぼくは今日、昼間、鎌倉中央図書館に居た。そして5時頃、帰宅した。そのとき、夕刊を観て驚いた。あの八幡様の大銀杏が、今日の未明、倒木したというのだ。樹齢千年ともいわれ、鎌倉八幡宮の顔とゆうだけではなく、鎌倉の顔、いや、日本一、名の知られた銘木といってよい。そのご神木が倒れたというのだから、もう大変な事件だ。さすが、朝日新聞、一面、準トップに載せてくれた。(あとで、駅のスタンドで調べたのだが、読売も準トップにしていた。情けないのは日経、東京だった、一面に載せていないのだ)。あほんだら、1000年もの間、鎌倉幕府の時代を含め、ホモサピエンスの歴史をやさしく見守ってくれていたんだぞ。こんな偉大なご神木さまの最後を軽く扱うとはとんでもない新聞だ。

それに、おれは、うちのゲゲゲの女房にも文句を言ってやった。家に帰ったら、ネットで知ってたよと、いう。それなら何故、メールでおれに知らせないのだとイカッタノダ。おれはもう、すぐ引き返した。急いで、大船駅に向かうと、おれを待っていたように逗子行きの電車がすぐ来た。5分で鎌倉駅に、そして、今日はご神木さまのお通夜だ、だから、正式に段蔓を通り、急ぎ足で、八幡宮の鳥居に向い、大銀杏に向かった。もう、6時前後というのに、舞殿の周囲には大勢の人が集まっていた。おれのように、御神木に弔意を表すために来たのか、ただの好奇心で寄ってきたやつかどうか、知らないが、何故かうれしかった。



ご神木は、こんな姿で根こそぎ、倒れていた。とても信じられる姿ではなかった。1,2週間には一度、この前を通るが、いつも、元気な姿をみせてくれて、まだ、何百年も、もしかしたら永遠に生き続けてくれるものかと思っていたのに、なんとゆうことだろう。この姿をみて手を合わせている若い人がいたが、おれも、涙があふれそうになってしまった。




舞殿から右側の石段を登って、本殿に向かった、途中で出会った巫女さんも涙ぐんでいるようだった。ぼくもここで、上から観て、合掌した。千年の命の最後。でも大往生だったね。未明、誰にも迷惑をかけず、静かに逝った。さすが、日本一の銘木、ご神木だ。ぼくの亡き母親の誕生日と同じ日に逝った。おれも、あと何年生きるか、わからないが、いつまでもおぼえてるぜ、2010年3月10日。さようなら、ありがとう、ご神木さま。




また、下の戻ると、テレビ局のインタビューが始まっていた。ひとつの歴史が終わった。


帰るころには日は落ち、代わりに段蔓の燈籠の灯が、ご神木の霊を弔っていた。
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3月10日

2010-03-10 10:33:37 | Weblog
知らなかったけれど、最近の中学校などの卒業式に、”3月9日”という歌がよく、うたわれるそうである。ぼくらの時代は、”蛍の光”や”仰げば尊とし”、一色だったが、近年、”贈る言葉”とかのヒットソングもうたわれるようになってきている。

今日は3月10日である。ぼくにとっては、3月9日は、なんという日でもない普通の日であるが、10日は違う。母の誕生日なのだ。生きていれば85歳だったね、と仏壇にお線香をあげた。去年の今頃は子宮頚癌で入院していて、病院で誕生日を迎えた。放射線治療だったので、15分ほどの照射を行えば、あとは病院内では自由行動だった。いつもは、お酒を飲んでの誕生日祝いだったが、病院内ではそうゆうわけにはいかず、その日は、母と、ぼくら夫婦と妹たちとで、お茶で乾杯した。それが最後の誕生日祝いになってしまった。

順調に治療を終え、退院したあと、お酒も飲んだり、元気に暮らしていたが、思いもよらず、約一か月後に、間質性肺炎に罹り、急逝してしまった。今、思うと、放射線治療による体力の低下もあったのかもしれない。

朝散歩で、3月10日の、母も好きだった、椿、寒桜、沈丁花、パンジーの花々をしみじみとみた。








。。。

3月9日

作詞 藤巻亮太
作曲 藤巻亮太
唄 レミオロメン

流れる季節の真ん中で
ふと日の長さを感じます
せわしく過ぎる日々の中に
私とあなたで夢を描く
3月の風に想いをのせて
桜のつぼみは春へとつづきます

青い空は凛と澄んで羊雲は静かに揺れる
花咲くを待つ喜びを分かち合えるのであればそれは幸せ
この先も隣でそっと微笑んで
瞳を閉じればあなたが
まぶたのうらにいることで
どれほど強くなれたでしょう
あなたにとって私もそうでありたい
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