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今朝の散歩で、あんなにきれいだった山藤が消えて、その代わりに、山帽子の白い花が目だってきた。時はどんどん過ぎて去ってゆく。両国の江戸博でみた龍馬伝展も、もう4日前だ。どんどん記憶がうすれてゆく。そのうち山藤のように消えてしまいそうなので(汗)、記録に残しておこうと思う。
司馬遼太郎の”龍馬がゆく”は全巻読んだし、福山雅治・龍馬の”龍馬伝”も毎回欠かさずみているので、大体の”龍馬史”はわかっているつもりだ。今回の展示も、第1章:土佐に生まれて、第2章 坂龍飛騰!、第3章 薩長同盟成る、第4章 夢は世界へ、と年代順にまとめている。よくぞここまでというくらい、たくさんの資料だった。龍馬は筆まめだったようで、多量の書簡が残されていて、それらの展示が主体である。龍馬は達筆で、ぼくには読めないが、要所、要所、簡単な説明が入れてあるので問題ない。
ちらしの龍馬の写真の横に書かれていた”日本を今一度せんたくいたし申候”の文が入った手紙は、乙女姉さんに宛てたもので、”5月10日に幕府は攘夷を実行すると約束したのに、実際、決行したのは長州だけだった、それも幕府のやつらはかえって長州を征伐するいい機会だといっている、姦吏ども打ち殺し”(ぼくのメモからなので正確な文章ではないがそうゆう趣旨である)に続いて、”日本を今一度・・・”とつづくのである。こんなふうに龍馬は乙女姉さんに、しばしば、時勢を知らせている。どれほどお姉さんを信頼していたかがよく分かる。
この手紙の他、乙女への日本一長い5メートルの手紙とか、土佐弁まじりの狂句や、”世の人は何とも云えばいへ わがなすことはわれのみぞ知る”の言葉の入った書簡等が全長10メートルの巻物に貼り付けられている。これは、京都国立博物館所蔵で、重要文化財となっている。これが、本展一の重要資料だろうか。
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龍馬を巡る女(笑)に関して少し書いてみたい。まず、初恋の人、平井加尾(広末涼子)のことだが、彼女に宛てたラブレターは残っていない。しかし、乙女への手紙の中で、加尾の兄の平井収二郎が処刑されたことを知り、加尾の心中をおもいやっている文面がある。そして、加尾が終生、所持していたという龍馬署名入りの寄せ書き胴掛も展示されていた。
千葉定吉道場の鬼小町と呼ばれた佐那(貫地谷しほり)については、龍馬の乙女への手紙で”顔かたちは平井加尾より少し良し”と書いている。千葉佐那は龍馬を想い続け、生涯独身で通した。後年、山梨に移り、お墓もそちらにあるらしい。
そして、お龍さん(真木よう子)。伏見池田屋騒動で、お龍さんの機転で、龍馬は命は助かるが、腕に怪我をする。その治療を兼ねて、霧島の温泉で、おりょうさんと、”日本初の新婚旅行”をする。そのことも、乙女に報告している手紙も展示されている。ただ、龍馬からおりょうさんへ宛てた手紙は一通しか残っていない。龍馬の死後、坂本家に世話になるが、離れる時に、全部、燃やしてしまったそうだ。おりょうさんは、のちに再婚したが、あまり幸せではなかったらしい。最後は久里浜(横須賀市)のお寺に眠る。ぼくは池田屋も行ったし、おりょうさんのお墓も行っている。以前、ブログにも書いた。
龍馬は近江屋で京都の見廻り組の襲撃により、命を落とし、生涯を終える。33歳だった。近江屋の部屋の復元されていた。死ぬ2日前の最後の手紙(陸奥宗光宛て)も展示されていた。
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龍馬伝を最初に書いた、坂崎紫瀾”汗血千里駒”も3冊、みることができた。これが、龍馬伝の源流といってよいのだろう。そして、時を経て、司馬遼太郎により、龍馬は歴史的大人物となっていったのだ。
龍馬の写真、使用した刀、平井収二郎の爪書辞世、河田小龍の朱竹図屏風、ジョン万次郎のアルファベット掛け軸、そして龍馬がおりょうさんに贈った帯留。みどころいっぱいの龍馬伝展だった。
”日本を今一度せんたくいたし申候” 龍馬に戻ってきてほしいぜよ(笑)