気ままに

大船での気ままな生活日誌

Thanks 熱海

2007-11-13 21:26:07 | Weblog
この写真は、今朝の熱海の海の夜明けです。6時前に目が覚め、オーシャンビューの全面ガラス窓の向こうに、思いがけない光景が目に飛び込んできました。大船で見るのより、さらに一等星分ぐらい輝きを増してる明けの明星の下に、まだ濃い紺色の空と海の間に、茜色の太い光の帯が、水平線に沿ってどこまでもどこまでも続いているではありませんか。

この海沿いのホテルにはもう、何度か泊まっていますが、こんな素晴らしい夜明けの光景は初めてです。一緒に泊まっていた、母と妹を起し、一緒に眺めました。それから20分ほどかかって、ようやく日の出です。海の向こうからちらりと顔を出す、お日様。おもわず拝みたくなる光景です。うしろを振り向くと、布団の上の母がそっと手を合わせていました。

チェックアウトしたホテルを出て、熱海港から船で初島に渡りました。そこで、母はもう一度、手を合わせていました。海の向こうの熱海の町のうしろに真っ白な富士山がそびえていたのです。島の人もこんなきれいな富士山はなかなか見られないよ、と話していました。

最近、ちょっぴり弱気になっていた母を元気づけるために急遽計画した小旅行でした。すばらしい熱海の、日の出とうつくしい富士の嶺をおがみ、そして、おいしいお刺身もたくさんいただき、母はすっかり元気を取り戻してくれたようでした。Thanks 熱海。

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天平の美、正倉院展を観る

2007-11-11 09:34:01 | Weblog
奈良国博で開催されている、第59回正倉院展を観てきました。気まま生活に入り、3年連続の参加となります。正倉院の出来た、8世紀(奈良時代)には日本の伝統工芸技術は古今を通じて最高レベルに達し、その後、衰退し、江戸末期から明治時代に一時盛り返しましたが、古代の技術レベルには及ばないかったと、いう専門家の話を聞き、こんなすばらしい宝物は毎年観なくてはと思ったのです。

9000点の正倉院宝物のうち、今回展示されているのは、70点ほどです。目玉として紹介されている品を始め、どれもこれも、素晴らしい宝物ですが、ここでは、ボクの気に入った宝物をいくつか紹介することにします。

刻彫梧桐金銀絵花形合子:戒壇堂(かいだんどう)という文字が裏に墨で書かれていました。戒壇堂は唐から招かれた鑑真和上のためにつくられたお堂ですから、この花形合子も鑑真が唐から持参したものと考えられています。ボクは最近、井上靖の”天平の甍”を読み、その映画も観て、盲目になっても遣唐使との約束を守り、幾多の困難を乗り越えて来日し、”受戒の制度”を伝えた鑑真和上をソンケイしていたのです。ですから、工芸美術品としてカンドーしたのではなく、合子の向こうの鑑真和上の影にカンドーしたのだと思います。

四分律 巻第十五 (唐経):これも鑑真和上が持参したお経(写経)といわれています。一つひとつの文字がとても、ていねいに書かれていました。素人のボクがみても上手な字だと思いました。これも上と同じ理由で心に残りました。

花氈(フェルトの敷物):カシミヤに似た山羊の毛でつくられた敷物です。ボクの好きな緑色、朱色を基調にしていたので気に入ったのかもしれません。大陸の植物の種子が潜り込んでいたそうで、国産ではなく、どうも大陸産のようです。

古裂残欠(こぎれざんけつ):これは、着物や組紐などの布きれを集めたものです。緑、紫、紺、白、紅、と色とりどりの”古裂残欠”が白い長方形のマットの上にのせられ、それ自体が一幅の額縁の絵のようでした。パッチワークが趣味の方はこんな布切れ一度使ってみたいわ、と思うでしょうね。

墨絵弾弓(すみえのだんきゅう):これは目玉出し物のひとつですが、ボクも気に入りました。弓矢ではなく、玉をはじいて飛ばす遊び道具だそうです。ここに漫画のように細かく描かれている墨絵が見所なのです。目を凝らしてみると、唐の都で流行った「散楽」を楽しむ人々の様子があざやかに現われてきました。

ちょっと変わったものでは、ミツバチの巣を加熱して作った蝋、”ろうみつ”が目を引きました。ろうけつ染めや薬用に使用したそうです。現在でも蜜蝋として使用されていますね。それから犀の角で作った”犀角杯”も、飲み助のボクにはドキンちゃんでした。マイぐいのみコレクションに入っていただければ、サイ上位のカドの位置にハイを置かせていただきますが。

・・・
約2時間後、ワイフと会場出口で出会い、外のテント内で特製弁当を頂き、午後は真っ赤なナンキンハゼがきれいな奈良公園(写真)を散策しながら、東大寺三月堂の、色白美人の月光菩薩さんを一年ぶりに訪ねたり、鑑真和上の東大寺戒壇堂にお参りしたりして、京都の宿に戻りました。

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”哲学の道” 界隈

2007-11-10 08:51:53 | Weblog
京都2日目は、天気予報は午後から雨でしたが、なんとか1日もってくれました。その日は行き当たりばったり方式にしました。まず銀閣寺前まで出て、銀閣には入らず、哲学の道を歩き始めました。ボクの好きな道です。ここは桜の時期には大変な人出ですが、今はひっそりしています。桜紅葉を期待していたのですが、イマイチという感じでした。

南禅寺方面に歩いて、しばらくすると、法然院入り口の表示がみえてきました。ここは紅葉の名所でもあり、2,3度は訪れています。でもまだ紅葉は早いのでここはパスしようかと思っていましたが、案内に、”特別拝観中”とありましたので、急遽、入ることにしました。

入って良かったです。とくに狩野光信の障壁画、すばらしかったです。方丈の上の間の襖に”桐ニ竹図”次の間に”槇ニ海棠図”と。襖絵のつづきの、床の間の桐の葉の緑色がほとんどあせていましたが、これは、公開日以外しか展示しない襖絵などとは異なり、直接、壁に描かれているため、しまっておけず、光にさらされ続けた結果だそうです。でも自然に、ゆうゆうと年を重ねていった老人の顔のようでとても素敵でした。

ここの墓地には谷崎潤一郎さんのお墓があります。晩年は京都の下鴨に住まわれたのですが、この墓地を決めたときに”ゴミ箱をひっくり返したような東京に比べると、なんとこの地は静寂であろう”とゆう意味の言葉を”ふうてん老人日記”に記しています。○○年前のことですから、東京の人怒らないでくださいね。

うつくしい苔屋根の山門(写真)をくぐり、また哲学の道に出ました。このまま、南禅寺方面へと思っていたのですが、つい右に折れ、真如堂に。一昨年、紅葉が素晴らしかったので、ついまた一、二本は紅くなっているだろうと思って訪れました。やっぱり一、二本だけでした。それも上の方だけ(泪)。先月、鎌倉の光明寺の”お十夜”を観にいきましたが、そのとき、この真如堂がその祭りの発祥の地であることを知りました。数日後、その”お十夜”祭りがここであると、お寺の方が教えてくれました。

会津藩士のお墓の標識がありましたので、初めてお参りしてきました。てっきり真如堂の墓地かと思ったのですが、隣りの金戒光明寺のでした。案内板をみると、幕末に、会津藩の松平容保が京都守護職となり、1200名の藩士と共に、ここ金戒光明寺の山を本拠地にしたそうです。結局は官軍に破れ、多くの犠牲者を出したのでした。その方々の墓地なのです。会津の人は京都に来るたびにここを訪れているのでしょうね。比較的近い歴史の跡をみることができました。

そこから、広い一般墓地を抜け、降りてゆくと、本堂前に出てきました。立派な松がありましたので、近づくと、”熊谷次郎直実の鎧掛けの松”とありました。平家物語によると、一ノ谷の戦いで、まだうら若い敦盛を討ち、そのあと殺生のむなしさを深く感じ、ここで鎧を下ろし出家し、法然上人の弟子になった、とのことです。ここでは遠い歴史の跡をみることが出来ました。

大きな山門が目の前にそびえていましたが、そこも今回の”京都非公開文化財特別拝観”のひとつになっていましたので、入ってみました。長い階段を昇り、楼上に着くと、そこには釈迦三尊像が安置されていました。お参りして、外に目を向けると、近くの平安神宮や目覚えのある神社仏閣など京都市内を一望できました。まさに”絶景かな”でした。

2日目の、”哲学の道”界隈の気まま旅も、なかなか良かったです。

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冷泉家住宅&廬山寺&京都御所

2007-11-09 07:25:12 | Weblog
今回の京都旅行の主な目的のひとつに、今、開催されている”京都非公開文化財特別拝観(秋期)”にあります。最初の日、宿に近い、3つの施設を訪れました。それぞれ、簡単に紹介したいと思います。テーマがまじめなものですので、だじゃれは少なめにいたしました。

冷泉家住宅:御所のお隣りです。同志社大学とも隣接しています。冷泉家は歌聖と仰がれる藤原俊成、定家父子を遠祖とする(定家の孫、冷泉為相(ためすけ)が初代)”和歌の家”です。明治になって、京都にあったほとんどの公家は東京に移りましたが、この冷泉家だけが、留守居役としてここに残りました。現存する最古の近世公家住宅として重要文化財に指定されています。2年前から公開するようになったようです。上の間、中の間、使者の間と一列に繋がる座敷棟が見事です(写真)。各座敷には、丸山応挙の鷹図や月次図屏風などが、そして和歌の家らしく、たくさんの”貝合わせ”も並べられていました。

ボクが一番カンドーした建築物は”御文庫”と呼ばれる蔵でした。20センチの厚い白壁が、あの、都の過半を焼き尽くしたという天明の大火のときに、冷泉家に伝わる新古今集など貴重な典籍、古文書を守ったそうです。御文庫が冷泉家の信仰の対象になっているとゆうのもうなずけます。”冷泉”家だから大火に対抗できたのでしょう、”温泉”家だったらどうだったか(笑)。茶化してはいけませんね、”礼せん”なあきまへんな、ぺこり。

冷泉為相のお墓が鎌倉の扇谷の浄光明寺の境内(裏山)にあり、ボクも去年のお彼岸にお参りしました。為相のお母さんは、あの十六夜日記の阿仏尼(あぶつに)です。為相は、遺産相続の関係で幕府へ訴訟にきた母、阿仏尼のあとを追って鎌倉にきたのです。そのあと、歌人として、鎌倉で生涯を全うしたのです。阿仏尼のお墓も鎌倉にあります。冷泉家は鎌倉と深い関わりがあるのです、エヘン。

廬山寺:これも御所のご近所です。紫式部の邸宅跡でもあります。この場所で式部は藤原宣孝との結婚生活を送り、一人娘の賢子を育て、源氏物語を執筆したのです。寺院内に近年、源氏物語ゆかりの庭がつくられ、源氏雲をかたどった苔の雲が白砂の空に浮かんでいました。苔といえば、このお寺の境内の何気ない苔もとてもきれいでした。また、紫式部に因み、紫の桔梗の花は終わっていましたが、代わりに竜胆が紫の花を咲かせていました。特別拝観としては、源氏物語に因んで、住吉広尚画”若紫”、そして、このお寺を開山された元三大師像などがありました。来年、源氏物語”生誕”1000年を迎えますので、大変な人気になるでしょうね。静かな、今のうちみておいた方がいいですよ(笑)。

京都御所:御苑内には何度も入ったことはありますが、通常公開されていない御所内は初めてだったように思います。観光バスがいくつも来ていて、大盛況でした。人気がありますね。入場すると、まず御車寄、そして、諸大夫の間、新御車寄と見学て行きます。圧巻は、建礼門の前を通り、大きな広場に入ると、そこには壮大な建築物がそびえています。紫宸殿です。即位礼など最重要な儀式を行う正殿だそうです。デジカメでは全景を撮ることができませんでした。左近の桜、右近の橘も控えていました。そしてさらに進むと、天皇が日常生活に使用された清涼殿、皇太子の即位式に使用された小御所、御学問所もみることが出来ます。建築物に関心のある方には、最高のところかもしれません。平安時代の寝殿造りから室町時代の書院造りへの建物様式の変遷をつぶさにみられるそうです。御池庭そして御内庭のお庭もりっぱでしたよ。

御所を出て、ボクらは11万平米もあるとゆう、築地塀に囲まれた御苑内の、ゆったりした木々の秋景色の中を散策しながら、近くのホテルに戻ったのでした。
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西陣の料亭

2007-11-08 17:53:44 | Weblog
京都最終日はワイフの要望で、”西陣魚新”という老舗料亭で昼食をとりました。この夏の祇園祭見学ツアーコースのお食事処のひとつに、ここのお店が入っていたのです。そのとき、ワイフは、ここの京料理をとても気に入り、機会があったら是非もう一度と言っていたのです。

ボクらは、その日、歩いて鴨川を下り、角倉了以の”高瀬川一之船入跡”や、その近くの島津製作所の発祥地あたりを散策して、バスで南禅寺に向いました。山門前の紅葉はまだまだでしたが、その代わり、カエデの木の下の苔が一面、見事な緑色を、輝くような緑を魅せてくれていました。これだけでここまで足を伸ばした甲斐がありました。りっぱなお寺には、りっぱな苔が育つもんだ、と感心しました。

12時半予約の少し前に、その料亭の玄関を開けると、うつくしい和服姿のお姉さんが、○○さんですか、と笑顔で出迎えてくれました。そして、8畳間ぐらいの和室に案内されました。団体のときは大広間でしたが、今度は個室です(エヘン)。お部屋の調度品が素晴らしいです、舞妓さんを描いた金屏風、床の間には掛け軸、しっとりした図柄の花瓶。障子の中段のガラス窓越しに、わざわざ客のために灯したと思われる石灯ろうや緑の植え込みが目に入ります。

まず、お酒とお通しがきて、飲み始めていると、”西陣弁当”がはこばれてきました。四つのしきりの中に、それぞれ、お刺身、煮物、焼き物、ご飯がうつくしく盛りつけられていました。食べるのがもったいないくらいです。その中に、栗の渋皮煮も入っていました。栗好きのワイフは、あなたお酒があるんだから、これひとつちょうだいね、と言って、ふたつのうち、ひとつを大きな口の中に放り込んでしまいました。一瞬の早業に度肝を抜かれてしまいました。ボクも負けじと、今度はワイフが松茸のお汁を飲んでるスキをつき、ツバメ返しの早業で、鯛のお刺身をかすめ取りました。

仲居さんのお話ですと、このお店は安政2年にここ西陣の地で開業され、当代で8代目になるそうです。御所ご用達の歴史をもつ由緒ある老舗料亭なのですね。

帰りに近くの西陣会館に寄りましたら、ちょうど、西陣織の着物ショー(写真)が行われていました。”西陣”の地名の由来は、ここが、応仁の乱の西軍の本陣の地だったとゆうことだそうです。西陣織りもその時代からのものですから、古い歴史ですね。

京都は、何処へ行っても、どんな種類のお店を訪ねても、歴史と伝統が息づいていますね。なんだか遠い千年の昔からの空気がそのまま、ここにあるようで、とても、心落ち着つける町です。



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鴨川沿いの朝散歩コース 日本一かも 

2007-11-08 11:09:51 | Weblog
3泊4日で、京都に行ってきました。いつもの鴨川沿いのホテルに泊まりました。ホテルの庭先から鴨川の川辺に出られます。ここから、毎朝ボクの朝散歩が始まります。

最初の日の夜明けは、東の空が”東天紅”でした。東山三十六峯をシルエットに東の空が茜色に染まり、その色が鴨川の川面にも染まり、それはそれは見事なものでした。しかし、それは”一瞬”のこと。カメラをと、部屋に戻る間に、もう東の空は、うす紅色になってしまいました。

そのホテルは、荒神橋近くにありますので、そこから上流に向かうのが、ボクのいつもの散歩コースです。賀茂川と高野川が合流する(合流して鴨川になるのです)最初の橋、賀茂大橋が前方に、さらに、その向こうには遠く北山の峰々が望めます。そして、広々とした川辺のプロムナードを歩いていると、川にはシロサギ、アオサギ、カモが、数日前渡ってきたばかりとゆうユリカモメも、そして、東の空には鳥の群れが、遠くの比叡山を背景に飛んでいます。行き交う散歩人の顔も晴れやかです。”おはようさん”。

賀茂大橋で小休憩。橋の上から鴨川をパチリ。そして、左に折れ、今度は御所の脇道コースをホテル方面に戻ります。ここが、またすばらしい散歩コースです。お車さまは通らない、ひとさまだけの緑の散歩道です。途中の何とか門から御所の敷地内にも入れます。もうすっかり秋の風情です。さすが御所、大きな木ばかり、木々の葉も秋色に染まり、落ち葉がいっぱい、ムネいっぱい(笑)。

そして、少し歩くと梨木神社。きっと”萩のお宮”と呼ばれているのだろう、参道に萩がいっぱい、ムネいっぱい。まだ咲いているのもある、そして、七夕の短冊みたいのが、どの萩の木にもはためいている、これなんだべと覗くと、そこには、和歌がしたためられていました。歌の一部に”萩”の文字が入っています。和歌がいっぱい、ムネいっぱい。鳥居のそばに、少年時代近くにお住まいだったとゆう、湯川秀樹さんの歌碑もあります、”千年の昔の園もかくやありし 木の下かげに乱れさく萩”。若いとき、湯川さんの文章が好きで良く読んだっけ。境内に湧き出る「染井の水」は、京都三名水の一つ。ここで空ペットボトルに水をつめる。タダではバチがあたると思い、お賽銭を100円。

鴨川沿い、御所、梨木神社コース、こんな、すばらしい散歩道、他にあるだろうか、日本一の朝散歩コースだと思いました。ボクの、いたち川沿いコースもいいけど、鴨川にはまず、名前負けします(汗)。老後は鴨川沿いのマンションに住みたいと思いました。おまえはもうすでに、十分”老後”だって?・・・小澤流ぷっつん!・・100才を越えたキンさんギンさんだって言ってました!”頂いたお金は老後のために貯金します”って。
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お菊さんにお留守番

2007-11-04 06:39:01 | Weblog
今日から数日間、京都、奈良に出掛けています。お留守番には、今、大船フラワーセンターで開催中の”神奈川県菊花展”にご出演されている美人女優、お菊さんにお願いしました。

帰りましたら、また正倉院展などの報告をしたいと思います。
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瑞泉寺で”写真供養感謝祭”

2007-11-04 05:49:32 | Weblog
瑞泉寺で文化の日に、個人所蔵の写真を供養し、燃やしていただけるという、”写真供養感謝祭”があることを知ったのは、一昨年のことでした。”放浪歌人”の山崎方代さんをご自宅の庭に小屋を建てて、住まわせておられた方が経営されている、八幡さま前のラーメン屋さんを訪ねたときでした。おかみさんと方代さんの話をしているときに、方代さんが和尚さんと懇意にしていた瑞泉寺に話が及び、この写真供養のこともそのとき知ったのでした。

帰ってから、ワイフにその話をすると、そろそろ処分したい写真が山ほどあるので、是非お願いしたいと、実は昨年の写真供養祭に参加するつもりでした。しかし、当日、急な用事が出来て、今日まで延び延びになっていたのでした。

ワイフは、もの持ちの良い方で、何でもなかなか捨てません(逆に、ボクは捨てるヒトです)。まして、写真は、です。中学、高校時代に撮ったモノクロのを含め、何百枚という数の写真を、○○年間、保存し続けてきました。それらを、ここ1ヶ月ほどで、ようやく捨て組、保存組に仕分けして、今日を迎えたわけです。

瑞泉寺総門に午前11時過ぎに到着。”写真供養感謝祭”と書かれたいくつもの白い旗がはためいている道を進むと、すでに先客がおり、供養祭は始まっていました。大きな中華鍋のような容器の中に、次々と写真を放り込み、燃やしておりました。そして、そのすぐ後ろでは、お坊さんがお経をあげておられました。

ワイフと手分けして、数百枚の写真を数枚づつ火の中に投げ込んでいきました。燃えさかる炎の中で、中高生時代のワイフの写真が、あっとゆう間に、燃え上がり、消え去っていきました。燃やしたあと、両手を合わせて、お辞儀をしました。

自分が写った写真を、自宅のたき火で燃やしたり、まして燃えるゴミとして出すのは、何となく気になるものですよね。ここでお願いして良かったと思います。供養までしてくれるのですから、ありがたいことです。人形も同じですね。ワイフは以前、趣味でお人形をつくっていたことあり、それらもいずれは処分しなければと思っているようです。鎌倉では、本覚寺で毎年、10月の初めに人形供養祭があり(人形塚もあります)ますので、きっと、来年はそちらかもしれません。第二の人生に入り、ワイフも、”貯めるより捨てる”をモットーにし始めたようです。

写真供養を終わり、石段を登り、本堂に向いました。本堂境内には、秋明菊が何十株も見事な花を咲かせていました。そうそう冬桜も満開でした。ワイフが晴れ晴れした顔で、秋の花々をながめていました。境内の東屋からは、写真供養祭の、やわらかな、やさしい煙が立ち上っているのを、木々の間から見ることができました。

秋の寺 写真供養の 煙かな (汗)
若き日の 写真燃やして また青春 (滝汗)
・・・

そして、山門前の方代さんの ”手の平に豆腐をのせて いそいそといつもの角を曲りて帰る”の歌碑 に、おかげさまでと手の平を合わせて、いそいそといつもの角を曲がって、古い石段の方を降りて帰りました。


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”小津安二郎 人と作品” を観る

2007-11-03 09:08:16 | Weblog
鎌倉駅前の会場で、「小津安二郎 人と作品」と銘打った映画会がありました。二本立てで、ひとつは小津監督の「お早よう」、もうひとつは、ドキュメント映画「生きてはみたけれど;小津安二郎伝」です。どちらも制作は元松竹大船の山内静夫さんです。小津さんとも懇意でおられた、作家の里見さんのご子息です。今回の映画会の主催者、”鎌倉名画座”の代表をされています。ボクの後ろの座席で観ていらっしゃいました。

ボクは小津作品は、原節子さんの紀子三部作を始め、結構観ていますが、この「お早よう」は初めての鑑賞でした。1959年の作で、佐田啓二、久我美子、杉村春子、笠智衆、三宅邦子ら出演の、昭和30年代の東京郊外の、向こう三軒両隣の、なにげない生活を描いた、ほのぼのした作品です。元祖”三丁目の夕日”といっていいかもしれませんね。

映画の中の、テレビの相撲の取り組みが富樫(柏戸の若き日の四股名です)対北の洋だったり、月光仮面や赤胴鈴の介の言葉が出てきたり、それにフラフープも。もう、ボクの心はすぐに”3丁目の夕日”です。二人の小学生の兄弟が、主役みたいなもの、ちょうど、おいらと同い年ぐらいかな。テレビを買ってくれとせがむ兄弟(おいらもそうだった、月光仮面がみたくて)、笠智衆のお父さんに叱られ、ふくれつらで、何日も無言作戦。その間の出来事が、三宅邦子のお母さんの近所づきあいで生じる女同士の小さなトラブル等とからませながら、コミカルに描かれます。ときおり、子供や大人のおならブーを入れたりして、小津さんならではの、日常の小さなおかしみが随所に取り入れられてあります。会場にクスクス笑いが絶えません。

佐田啓二と久我美子の”淡い恋”も描かれています。ななんと、久我美子さんの役の名は”節子さん”。これも小津さんのユーモアでしょうか。ご自分が恋心をもっておられた(世間でもそう報じられていた)原節子さんを意識して、この名前をつけたに違いありません(脚本も小津さんです)。この二人、肝心なことは何も言わないで、いつも天気の話ばかり。おわりの方の、駅のホームの場面、今度こそ愛の言葉のひとつでも出るかと思いましたら、ななんと、また、空の雲の話し。またクスクスのク。小津さんも原節子さんの前ではこうだったんでしょうね(おいらのはつこいもそうだった、汗)。

カラー作品ですので、ボクは小津さんの好きな赤い色を注目して観ていました。居酒屋のとっくり模様とか、調度品、衣装など、随所に赤が、取り入れられていましたよ。

この映画には、娘を嫁入りさせたあとの父親のうつろな目もありませんし、妻をなくして、一日がなごう感じますな、とさびしそうに答える老人の姿もありません。何の事件もない、ありきたりの日常生活だけが描かれています。でも小津作品をいくつも観ていると、これは小津連続ドラマのひとつだ、と思えてくるから不思議です。コミカルな画面の向こうに、”麦秋”や”東京物語”のラストシーンが目に浮かんでしまうのです。
・・・

もうひとつの、「生きてはみたけれど;小津安二郎伝」については、また別の日に紹介しますね。これから、お出かけの予定があるので(汗;毎日、出かけすぎという意味の汗)。





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百万本の薔薇

2007-11-02 07:43:36 | Weblog
ワイフが先日、熱海で開かれた大学のクラス会に出席してきました。おしゃべりワイフが、ボクにそのときの話しをいろいろしてくれましたが、大部分の話はいつものように、ボクの右の耳から左の耳に抜けていってしまいました(汗)。でも、ひとつだけ、面白かった話がありましたので、紹介しますね。

その同級生の女性の方は、大学を卒業後、ずっと大きな薬局の薬剤師さんとして勤めていましたが、50代に入ってから突然、独立して個人薬局を開業しようと思い立ちました。そして、薬屋さんに改造できそうな物件を探し歩きました。そして、ようやく商店街の一画に手頃な空き屋をみつけることができました。

さてどうゆう薬屋さんのお店にしようかと、いろいろ思案していたのですが、どうも、気になってしまうことが出てきてしまいました。そして、その気になることは、始めは小さな点のようなものだったのですが、日増しに大きくなってきて、しまいには、彼女の胸一杯に拡がってきてしまったのです。

それは、その空き屋の、とても素敵なワンルームのせいでした。とてもりっぱな、まだまだ使用可能なカラオケ装置、床にはきれいな絨毯とソファー、天井にはシャンデリアやミラーボールが燦然と輝いていたのです。実は、ここは以前、カラオケ屋さんだったのです。

彼女は、これらを処分するのが、とても惜しくなってきました。そして、とんでもない方向に考えが向かっていったのでした。そうだ、薬屋さんなんかしないで、このままの設備を利用してカラオケ屋さんを開業しようと。そして、はじめ、ご主人の反対もあったようですが、ご自分の意志を通して、とうとうカラオケ屋さんを始めたのでした。

ドラッグストアーの出現で個人薬局の経営が困難になりつつある現状も少しは頭にあったかもしれませんが、あっと驚く、見事な転身です。現在も、とても繁盛していて、ご近所の、とくにリタイアされた人達のサロンのようになっているようです。コーヒー、紅茶等のドリンクを提供する程度にして、利益は二の次ぎ、みなさんに楽しんでもらえればという考えだそうです。

今、カラオケ屋さんをやっています、という彼女の挨拶に、みんな、びっくりしたそうです。彼女は学生時代から、まじめ一方の性格で、おとなし系でしたから、カラオケと彼女がすぐに結びつかなかったようです。

彼女の人生の分かれ目に、ふと目の前に現われた素敵なカラオケのお部屋。きっと、お天道様が第二の人生はこちらにしなさいと示してくれている、と彼女は思ったのでしょうね。似たような経験はどなたもおもちだと思います。

懇親会で、私、この歌が一番好きなの、と言ってカラオケで歌われた、彼女の”百万本の薔薇”の歌声が、同級生たちの心に染みわたっていったのでした。♪百万本のバラの花を あなたにあなたにあなたにあげる♪



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