先日、文芸評論家の新保祐司さんの講演”中原中也と小林秀雄”について紹介しましたが、ひとつ書き忘れていたことがありました。それは、中也研究のスペシャリストである新保さんが一番好きな中也の詩のことについてです。
それは、”冬の長門峡”とゆう詩で、中也が晩年、故郷山口の長門峡を訪れたときにつくられものです。新保さんは、この詩の最期の節の”あゝ!そのやうな時もありき、寒い寒い日なりき”、とくにそのはじめの、”あゝ!”とゆう詠嘆の一言にグッときてしまうと言います。この”あゝ!”に、中也のそれまでの人生が凝縮されている、万感の思いが込められている、それが胸をうつというのです。
中也の年表を調べてみますと、28才の3月に長門峡を訪れています。そして、この詩は2年後の中也が亡くなる年、30才のときにつくられています。おそらく、このときにはすでに自分の死を予感していたのでしょう。”あゝ!”という詠嘆の語が自然と口をついたのでしょう。この詩の中で、”あゝ!”は、まるで火山口のようです。そこから中也の地下のマグマのごとき熱き思いが次々と噴き出しているようです。
でも、この”あゝ!”は、めったに使えない手ですね、一生に一つだけの詩にしか使えません。人生の最後を迎え、故郷にもどってつくった、故郷の歌にこの”あゝ!”をとっておいたみたいですね。きっと、中也自身も自作の詩の中では一番お気に入りの詩ではなかったかと想像します。
ボクは中也の詩とゆうと、あの”汚れっちまった悲しみに”ぐらいしか知りませんでしたが、これを機に、この詩もとても好きになりました。
・・・
冬の長門峡 (中原中也)
長門峡に、水は流れてありにけり。
寒い寒い日なりき。
われは料亭にありぬ。
酒酌みてありぬ。
われのほか別に、
客とてもなかりけり。
水は恰(あたか)も魂あるものの如く、
流れ流れてありにけり。
やがても蜜柑の如き夕陽、
欄干にこぼれたり。
あゝ! ----そのやうな時もありき、
寒い寒い 日なりき。
「在りし日の歌」所収
それは、”冬の長門峡”とゆう詩で、中也が晩年、故郷山口の長門峡を訪れたときにつくられものです。新保さんは、この詩の最期の節の”あゝ!そのやうな時もありき、寒い寒い日なりき”、とくにそのはじめの、”あゝ!”とゆう詠嘆の一言にグッときてしまうと言います。この”あゝ!”に、中也のそれまでの人生が凝縮されている、万感の思いが込められている、それが胸をうつというのです。
中也の年表を調べてみますと、28才の3月に長門峡を訪れています。そして、この詩は2年後の中也が亡くなる年、30才のときにつくられています。おそらく、このときにはすでに自分の死を予感していたのでしょう。”あゝ!”という詠嘆の語が自然と口をついたのでしょう。この詩の中で、”あゝ!”は、まるで火山口のようです。そこから中也の地下のマグマのごとき熱き思いが次々と噴き出しているようです。
でも、この”あゝ!”は、めったに使えない手ですね、一生に一つだけの詩にしか使えません。人生の最後を迎え、故郷にもどってつくった、故郷の歌にこの”あゝ!”をとっておいたみたいですね。きっと、中也自身も自作の詩の中では一番お気に入りの詩ではなかったかと想像します。
ボクは中也の詩とゆうと、あの”汚れっちまった悲しみに”ぐらいしか知りませんでしたが、これを機に、この詩もとても好きになりました。
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冬の長門峡 (中原中也)
長門峡に、水は流れてありにけり。
寒い寒い日なりき。
われは料亭にありぬ。
酒酌みてありぬ。
われのほか別に、
客とてもなかりけり。
水は恰(あたか)も魂あるものの如く、
流れ流れてありにけり。
やがても蜜柑の如き夕陽、
欄干にこぼれたり。
あゝ! ----そのやうな時もありき、
寒い寒い 日なりき。
「在りし日の歌」所収