京都2日目は、天気予報は午後から雨でしたが、なんとか1日もってくれました。その日は行き当たりばったり方式にしました。まず銀閣寺前まで出て、銀閣には入らず、哲学の道を歩き始めました。ボクの好きな道です。ここは桜の時期には大変な人出ですが、今はひっそりしています。桜紅葉を期待していたのですが、イマイチという感じでした。
南禅寺方面に歩いて、しばらくすると、法然院入り口の表示がみえてきました。ここは紅葉の名所でもあり、2,3度は訪れています。でもまだ紅葉は早いのでここはパスしようかと思っていましたが、案内に、”特別拝観中”とありましたので、急遽、入ることにしました。
入って良かったです。とくに狩野光信の障壁画、すばらしかったです。方丈の上の間の襖に”桐ニ竹図”次の間に”槇ニ海棠図”と。襖絵のつづきの、床の間の桐の葉の緑色がほとんどあせていましたが、これは、公開日以外しか展示しない襖絵などとは異なり、直接、壁に描かれているため、しまっておけず、光にさらされ続けた結果だそうです。でも自然に、ゆうゆうと年を重ねていった老人の顔のようでとても素敵でした。
ここの墓地には谷崎潤一郎さんのお墓があります。晩年は京都の下鴨に住まわれたのですが、この墓地を決めたときに”ゴミ箱をひっくり返したような東京に比べると、なんとこの地は静寂であろう”とゆう意味の言葉を”ふうてん老人日記”に記しています。○○年前のことですから、東京の人怒らないでくださいね。
うつくしい苔屋根の山門(写真)をくぐり、また哲学の道に出ました。このまま、南禅寺方面へと思っていたのですが、つい右に折れ、真如堂に。一昨年、紅葉が素晴らしかったので、ついまた一、二本は紅くなっているだろうと思って訪れました。やっぱり一、二本だけでした。それも上の方だけ(泪)。先月、鎌倉の光明寺の”お十夜”を観にいきましたが、そのとき、この真如堂がその祭りの発祥の地であることを知りました。数日後、その”お十夜”祭りがここであると、お寺の方が教えてくれました。
会津藩士のお墓の標識がありましたので、初めてお参りしてきました。てっきり真如堂の墓地かと思ったのですが、隣りの金戒光明寺のでした。案内板をみると、幕末に、会津藩の松平容保が京都守護職となり、1200名の藩士と共に、ここ金戒光明寺の山を本拠地にしたそうです。結局は官軍に破れ、多くの犠牲者を出したのでした。その方々の墓地なのです。会津の人は京都に来るたびにここを訪れているのでしょうね。比較的近い歴史の跡をみることができました。
そこから、広い一般墓地を抜け、降りてゆくと、本堂前に出てきました。立派な松がありましたので、近づくと、”熊谷次郎直実の鎧掛けの松”とありました。平家物語によると、一ノ谷の戦いで、まだうら若い敦盛を討ち、そのあと殺生のむなしさを深く感じ、ここで鎧を下ろし出家し、法然上人の弟子になった、とのことです。ここでは遠い歴史の跡をみることが出来ました。
大きな山門が目の前にそびえていましたが、そこも今回の”京都非公開文化財特別拝観”のひとつになっていましたので、入ってみました。長い階段を昇り、楼上に着くと、そこには釈迦三尊像が安置されていました。お参りして、外に目を向けると、近くの平安神宮や目覚えのある神社仏閣など京都市内を一望できました。まさに”絶景かな”でした。
2日目の、”哲学の道”界隈の気まま旅も、なかなか良かったです。
南禅寺方面に歩いて、しばらくすると、法然院入り口の表示がみえてきました。ここは紅葉の名所でもあり、2,3度は訪れています。でもまだ紅葉は早いのでここはパスしようかと思っていましたが、案内に、”特別拝観中”とありましたので、急遽、入ることにしました。
入って良かったです。とくに狩野光信の障壁画、すばらしかったです。方丈の上の間の襖に”桐ニ竹図”次の間に”槇ニ海棠図”と。襖絵のつづきの、床の間の桐の葉の緑色がほとんどあせていましたが、これは、公開日以外しか展示しない襖絵などとは異なり、直接、壁に描かれているため、しまっておけず、光にさらされ続けた結果だそうです。でも自然に、ゆうゆうと年を重ねていった老人の顔のようでとても素敵でした。
ここの墓地には谷崎潤一郎さんのお墓があります。晩年は京都の下鴨に住まわれたのですが、この墓地を決めたときに”ゴミ箱をひっくり返したような東京に比べると、なんとこの地は静寂であろう”とゆう意味の言葉を”ふうてん老人日記”に記しています。○○年前のことですから、東京の人怒らないでくださいね。
うつくしい苔屋根の山門(写真)をくぐり、また哲学の道に出ました。このまま、南禅寺方面へと思っていたのですが、つい右に折れ、真如堂に。一昨年、紅葉が素晴らしかったので、ついまた一、二本は紅くなっているだろうと思って訪れました。やっぱり一、二本だけでした。それも上の方だけ(泪)。先月、鎌倉の光明寺の”お十夜”を観にいきましたが、そのとき、この真如堂がその祭りの発祥の地であることを知りました。数日後、その”お十夜”祭りがここであると、お寺の方が教えてくれました。
会津藩士のお墓の標識がありましたので、初めてお参りしてきました。てっきり真如堂の墓地かと思ったのですが、隣りの金戒光明寺のでした。案内板をみると、幕末に、会津藩の松平容保が京都守護職となり、1200名の藩士と共に、ここ金戒光明寺の山を本拠地にしたそうです。結局は官軍に破れ、多くの犠牲者を出したのでした。その方々の墓地なのです。会津の人は京都に来るたびにここを訪れているのでしょうね。比較的近い歴史の跡をみることができました。
そこから、広い一般墓地を抜け、降りてゆくと、本堂前に出てきました。立派な松がありましたので、近づくと、”熊谷次郎直実の鎧掛けの松”とありました。平家物語によると、一ノ谷の戦いで、まだうら若い敦盛を討ち、そのあと殺生のむなしさを深く感じ、ここで鎧を下ろし出家し、法然上人の弟子になった、とのことです。ここでは遠い歴史の跡をみることが出来ました。
大きな山門が目の前にそびえていましたが、そこも今回の”京都非公開文化財特別拝観”のひとつになっていましたので、入ってみました。長い階段を昇り、楼上に着くと、そこには釈迦三尊像が安置されていました。お参りして、外に目を向けると、近くの平安神宮や目覚えのある神社仏閣など京都市内を一望できました。まさに”絶景かな”でした。
2日目の、”哲学の道”界隈の気まま旅も、なかなか良かったです。