スロージョギングと写真のブログ

ウォーキング、ジョギング、ママチャリで出あった季節の花や風景写真で日々の出来事・雑感をつづっていきます

大江健三郎が問う核兵器と原発

2011年07月03日 | 地域活動(環境)

■ 今夜、2011年7月3日(日)夜10時、NHK・TVの「ETV特集」は、

▽元第五福竜丸乗組員・大石又七との対話▽ビキニ事件57年内部被曝の恐怖、原発はこうして日本に導入された▽福島原発事故 の責任 (新聞の番組表案内)

だった。

 

くしくも、今朝配られた地域新聞に、

“「シカゴパイル」。世界初の原子炉は、暗号のようにこう呼ばれた。米シカゴ大に極秘に作られた実験炉で、初めて原子の火がともったのは、1942年。実験は米国に亡命したイタリア出身の物理学者が主導し、研究は米政府の機密計画の一環で、ねらいは原子爆弾の開発であった。
主要国が実用化にしのぎを削るなか、シカゴパイルの成功は新兵器に道筋をつけ、米国による広島、長崎への原爆投下とつながった。また世界で初めての発電用の原子炉を稼動させたのはこんどはソ連だった。モスクワ近郊のオブニンスク原発だ、運転を始めたのは1954年6月である。
まだ、60年に満たない世界の原発の歴史。この間に米国はスリーマイル島、ロシアはチェルノブイリで大事故を起こした。… …
かたや、非核を唱えながらも核の平和利用の言葉を隠れみのに「原発推進」に足を踏み入れた日本。…3月11日に福島第一原発の事故を発生させた。”

のコラムが載っていた。

 

核兵器、原発の歴史を知ってみれば、ほぼ私の年令と同じである。

なのに、なにも知らず(知ろうとしないで)、知る機会もなく(知らされないで)、3月11日まで来てしまった。

私の生まれる前の地球も、日本の国土も、既になにがしかの公害に汚染はされていたが、有毒な放射線物質には汚染されていなかった。

国や世界が真実を歪め見えなくし、人間(人間以外の動植物も含め)の生存権を脅かす方向に進まないよう、それぞれの場で注意していきたい。

 

で、

ビキニ事件、断片的な記憶があるだけですので、どのような事件だったのか、改めて知りたいと思う。

そんなことで今夜のETV特集は、ちょっと見逃せない。

広島・長崎、ビキニ。作家、大江健三郎は、核と日本人の問題を考え続けてきた。
そして福島原発事故が起こったいま、大江は、核兵器の抑止力という幻想と原発の安全性という神話が重なり合って見えると語る。
その大江の希望で、去る5月11日、東京夢の島に展示された第五福竜丸の船上で、一つの対談が行われた。
相手は、大石又七。
1954年3月1日、ビキニ沖をマグロ漁船、第五福竜丸で航行中にアメリカの水爆実験に遭遇、“死の灰”を浴びて被ばくした
当時、大石は二十歳の誕生日を迎えたばかりだった。
周囲の偏見、無理解に耐え切れず、東京に出た大石は、クリーニング店を営み、ひっそりと暮らしてきた。
第一子の死産、被ばくした仲間たちの相次ぐ癌死
大石は、核に対する恐怖を胸中に抱え込んだまま沈黙を続けた。
その背景には、冷戦下の核配備競争と、それと1セットの形で進められた核の平和利用の推進という時代の潮流があった。
大石が、核について発言を始めたは、80年代になってからである。
夢の島に捨てられていた第五福竜丸が「発見」され、そこを訪ねた時、何かが大石を動かした。以来、大石は、中高生たちに被爆体験を今日に至るまで語り続けてきた。
大江は、大石が、日本人と核という問題に最も真摯(しんし)に向き合い続けてきた一人と考えている。

広島・長崎から66年ビキニ事件から57年
その間、日本人は核被害をよく思想化し得なかったのではないか。
そのことと福島原発事故はつながっているのではないか
番組では、初めて会う二人が、歩んできた時代、核と人間について語り合う。』(番組案内:  http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2011/0703.html

<参考>
        大石又七さん
         ① ビキニ事件~忘れられた被爆者2002 ② 原水爆禁止世界大会2003

 追記 : ① 5/20~22に採った尿からセシウム検出(6~16歳の男女10人)

       ② 「2011.6.14 CINIC News 放射能汚染について」(木村真三(北大非常勤講師))

稲毛の浜  2k  1k(海)  
 
 当月累計  R=12k  S=1k  年間累計  R=1002  S=57.8km

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする