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マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』

2012-04-23 18:38:00 | ノンジャンル
 朝日新聞の特集記事『読んで感じる 時代の声』の中で紹介されていた、マイケル・サンデルの'09年作品『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』を読みました。
 '04年夏にアメリカを襲ったハリケーン・チャーリーは多大な被害を与えましたが、被害地域では生活に困る住民に対して業者による故意の値上げが広く行われ、それに対する非難が起こる一方、消費が抑えられ、商品やサービスの供給が増えるという理由でそれを擁護する人々も現れました。しかしその論法へは、切羽詰まった買い手に自由はないとして市場の論理を否定する意見も出され、こうした点からも、この事態は法律はいかにあるべきか、社会はいかに組み立てられるべきか、正義はいかに実現されるべきかというテーマを考えさせるものとなりました。
 それはPTSDに苦しむ退役軍人に名誉負傷勲章を与えるべきか、破綻した大企業を救済するために政府は支援すべきか、などの問題でも喚起されるテーマであり、多数の人を救うため少数の人を犠牲にする様々なケースでも考えられるものです。こうした問題について過去の人々がどのような考え方をしてきたかを検証しようというのが本書の目的です。
 まず、ベンサムの功利主義があげられます。彼は苦痛に対し快楽を最大化すること、つまり「効用」を最大にしようと考えれば、それらの問題を解決できると主張しました。しかし、その主張に対しては、「効用」のために個人の権利が犠牲になっていいのか、様々な価値を共通に表現する「通貨」が存在するのか、といった反論が存在します。ベンサムの理論を修正したのがミルで、人は自分に対して主権を持ち、「効用」を最大化するとしても個人の自由に介入してはならず、長期的観点から「効用」を考えるべきだとし、快楽も質の高いものと低いものに区別すべきだとしました。
 それに対し、自分を所有しているのは自分で、個人が自由に何でも選択していいという主張をしたのがリバタリアンと呼ばれる人々で、国家は個人の自由を守る最小限のことをしていればよく、したがって自分の腎臓を売ろうが、自殺をしようが、自分から望んで人に食べられようが、何でも認められるというものでした。
 一方、正義をめぐる議論が白熱してくると、たいてい市場の役割の話となりますが、典型的な自由市場の擁護論は自由を重視するものと、福祉を重視するものに分かれます。この議論で論点がはっきりする典型的なケースとして、徴兵と傭兵の問題、金をもらっての他人の子の妊娠の問題が語られます。
 次に紹介されるのはカントの考え方で、人間はそもそも理性的な存在であり、無条件に尊厳と尊敬に値するというものです。その主張においては、個人の尊厳が必ずしも保障されない功利主義も、自分を大切にしなくてもいいリバタリアンの考えも退けられます。そして理性的な人間は自律的に行動することが可能で、正しい目的をもって行動し義務を果たすことができるとしました。
 20世紀のアメリカの政治哲学者ロールズは、自分がどのような初期状態を持っているか分からない状態と仮定して個人に判断させ、その仮定のもとで選ばれるであろう状態、つまり基本的自由をすべての人に平等に与え、所得と富の平等な分配がなされる状態が公正なものであると考えました。自分のリスクを考えれば、そうした状態に行きつくとロールズは考えたのです。彼は社会的条件というものが能力や努力など全てのものに付きまとい、それを考えにいれずに行われる思考はすべて無効だと考えたのでした。
 これ以降も、マイノリティを救うためのアファーマティブ・アクションの是非、アリストテレスの政治思想、コニュニティ間での謝罪や補償、愛国心の是非、政治と宗教の問題、妊娠中絶と幹細胞をめぐる論争、同性婚の是非などについて論じられます。

 私個人としては、ロールズの考え方が一番腑に落ちました。アリストテレスの段など、難解で飛ばし読みしたところもありましたが、具体例で語られる部分は結構分かりやすかったと思います。「正義」に興味のある方にはお勧めです。

→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/