劇団ひとりさんの'08年作品『そのノブは心の窓』を再読しました。「週間文春」'06年8月31日号から'08年2月28日号に初出した文章に大幅に加筆改訂して作られた本であり、また「この作品は、事実を元にしたフィクションです。実在の人物・団体等とは関係ありません。」とのことです(?)。
最初の文章(あえて「エッセイ」とは呼ばないでおきます)は「無償の愛」と題されたものです。書き手である僕は無償の愛を実践してみようと思います。無償とは報酬を受けずに愛するということ。「電車の中で老人に席を譲る」、これはお礼を言われたり、他の乗客から羨望の眼差しで見られたりして、報酬を受け取ることになります。「植物を育てる」、これも色鮮やかな花や緑が心を癒してくれるという報酬が存在します。
そこで僕は「石を愛してみよう」と決心します。石は動かず、花も咲かせず、そんな石を愛せたら、そこれこそが無償の愛になるという訳です。
どうすれば愛せるのか。とりあえず、まずは名前をつけようとしてみますが、これが難問です。犬や猫のようにステロタイプがないのですから。そこで書き手は「石原さん」(石だけに!)と名付けてみました。
名付けたものの、またその先どのように愛せばいいのか分からず、僕はとにかく少しでも長く一緒にいることを心掛けます。「外出する時はポケットに石原さんを忍ばせ、夜はベッドの枕元に石原さんを置き、お風呂だって石原さんと一緒に入りました。」
「そして、一緒にいる間はなるべく会話をしました。最初のうちはどうしても石に話しかけている状況に違和感があり感情移入が出来ませんでしたが、『石原さん、こんにちは』『いってきます、石原さん』『いい天気だね、石原さん』などと挨拶を続けていると、次第に違和感もなくなってきて挨拶だけではなく普通の話なども出来るようになりました。」
そして僕はついに石原さんの返事を聞けるようになります。石に僕がキャラクター付けをするようになり、石原さんが言ってくれるだろう言葉を想像できるようになったのです。
すると、石原さんに「正面」、つまり顔があるようにも思え始めます。何ということもない普通の石だったのに、自分にとっては人面石になってきたのです。
「そんな僕と石原さんの生活も一ヶ月が過ぎようとしています。最近は石原さんと一緒に出来る楽しい遊びも出来ました。僕と石原さんが出会った場所でもある近所の砂利が敷かれた駐車場には石原さんと同じような姿をした石がたくさん転がっています。数え切れませんがきっと何万個とあるはずです。そこで後ろ向きに石原さんをポイッと投げてから、振り返り石原さんを探し出すのです。早い時は一分ぐらいで見つかりますが、なんせ見た目がほとんど同じなので遅い時は五分ほど掛かります。
『本当に同じ石なのか? 間違ってんじゃないのか?』
そんな意地悪をいう人へ僕は聞きたいです、あなたの家にいるのは本当に昨日と同じ家族ですか、それを証明することが出来ますかと。
そんなことは疑問にも思わないはずです。なぜなら間違えようがない確信があるから。それと同じこと。目の前の家族が間違いなく本当の家族であると同じように、目の前の石原さんは石原さんでしかないのです。ひょっとしたら、それは僕が石原さんを心から愛することが出来た証であり、無償の愛が存在する証なのかもしれません。」
そして最後、オチがつくのですが、この一文を取っても読む価値は十分にあると思います。「事実を元にしたフィクション」、劇団ひとりさんの作文のような味わいのある「芸」にまだ触れていない方は、是非ご堪能ください。文句無しにお勧めです。
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)
最初の文章(あえて「エッセイ」とは呼ばないでおきます)は「無償の愛」と題されたものです。書き手である僕は無償の愛を実践してみようと思います。無償とは報酬を受けずに愛するということ。「電車の中で老人に席を譲る」、これはお礼を言われたり、他の乗客から羨望の眼差しで見られたりして、報酬を受け取ることになります。「植物を育てる」、これも色鮮やかな花や緑が心を癒してくれるという報酬が存在します。
そこで僕は「石を愛してみよう」と決心します。石は動かず、花も咲かせず、そんな石を愛せたら、そこれこそが無償の愛になるという訳です。
どうすれば愛せるのか。とりあえず、まずは名前をつけようとしてみますが、これが難問です。犬や猫のようにステロタイプがないのですから。そこで書き手は「石原さん」(石だけに!)と名付けてみました。
名付けたものの、またその先どのように愛せばいいのか分からず、僕はとにかく少しでも長く一緒にいることを心掛けます。「外出する時はポケットに石原さんを忍ばせ、夜はベッドの枕元に石原さんを置き、お風呂だって石原さんと一緒に入りました。」
「そして、一緒にいる間はなるべく会話をしました。最初のうちはどうしても石に話しかけている状況に違和感があり感情移入が出来ませんでしたが、『石原さん、こんにちは』『いってきます、石原さん』『いい天気だね、石原さん』などと挨拶を続けていると、次第に違和感もなくなってきて挨拶だけではなく普通の話なども出来るようになりました。」
そして僕はついに石原さんの返事を聞けるようになります。石に僕がキャラクター付けをするようになり、石原さんが言ってくれるだろう言葉を想像できるようになったのです。
すると、石原さんに「正面」、つまり顔があるようにも思え始めます。何ということもない普通の石だったのに、自分にとっては人面石になってきたのです。
「そんな僕と石原さんの生活も一ヶ月が過ぎようとしています。最近は石原さんと一緒に出来る楽しい遊びも出来ました。僕と石原さんが出会った場所でもある近所の砂利が敷かれた駐車場には石原さんと同じような姿をした石がたくさん転がっています。数え切れませんがきっと何万個とあるはずです。そこで後ろ向きに石原さんをポイッと投げてから、振り返り石原さんを探し出すのです。早い時は一分ぐらいで見つかりますが、なんせ見た目がほとんど同じなので遅い時は五分ほど掛かります。
『本当に同じ石なのか? 間違ってんじゃないのか?』
そんな意地悪をいう人へ僕は聞きたいです、あなたの家にいるのは本当に昨日と同じ家族ですか、それを証明することが出来ますかと。
そんなことは疑問にも思わないはずです。なぜなら間違えようがない確信があるから。それと同じこと。目の前の家族が間違いなく本当の家族であると同じように、目の前の石原さんは石原さんでしかないのです。ひょっとしたら、それは僕が石原さんを心から愛することが出来た証であり、無償の愛が存在する証なのかもしれません。」
そして最後、オチがつくのですが、この一文を取っても読む価値は十分にあると思います。「事実を元にしたフィクション」、劇団ひとりさんの作文のような味わいのある「芸」にまだ触れていない方は、是非ご堪能ください。文句無しにお勧めです。
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)