安保法制を根拠に、南スーダンPKOへの駆けつけ警護のための自衛隊の派遣が閣議決定されました。内戦が続く南スーダン。今朝の朝日新聞の社説でも述べられていましたが、今の南スーダンにおいて日本ができる貢献は、内戦の平和的解決の橋渡し役であって、部隊の派遣ではないと、私も思います。内戦に巻き込まれて、命を奪う、奪われるということにならなければいいのですが……。
さて、高野秀行さんの ‘15年作品『恋するソマリア』を読みました。
第一章 片思いのソマリランド(2011.10~2012.3)
著者が初めてソマリの地を踏んだのが2009年の6月。2回目が2012年の7月から9月にかけて2ヵ月あまり。ソマリ語は難しい。2回目のソマリ行きから帰国し、1ヵ月経った頃、著者は焦っていた。ソマリ語を忘れていく。前回の旅で、著者はアフリカ東部のソマリ人居住域で放映されている衛星放送の国際ソマリ語テレビ局〈ホーン・ケーブルTV〉の東アジア支局代表に任命してもらっていた。いかんせんソマリ人は元来遊牧民で「兆速」である。著者は在日ソマリ人の早稲田大学への留学生アブディラフマンとサミラの兄妹にソマリ語を教えてもらうことにする。
2ヵ月ほどして、ホーン・ケーブルTV東京支局の立ち上げを真剣に考え出したが、なかなかうまくいかない。そこで考え出したテーマは「日本の中古車輸出事情」だった。東京にある中古自動車の輸出を主とした専門商社の新聞広告をソマリで出すこととし、著者は3回目のソマリ訪問とあいなる。
ソマリランドの中心地ハルゲイサにあるホーン・ケーブルTVを訪ね、そこでの旧友ワイヤッブに再会した。ソマリランド共和国建国後、最初にマスメディアを作った人だ。ワイヤッブの協力を得て、ソマリランドの複数の新聞社に中古車輸入会社の広告を載せてもらおうとするが、まともな広告を載せてくれたのは2紙のみだった。
そこで今度は直接の営業をするため、精神を高揚させるカートの宴会場であるマフラーシュに連れていってもらった。しかし、問い合わせの電話は一つも来ず、著者の努力は水の泡に。
さて、著者は30年近く世界の各地を歩いてきた経験から、人間集団を形作る内面的な三大要素は「言語」「料理」「音楽(踊りを含む)」と思うようになっていた。ソマリ人は驚くことに、誰も西洋の音楽を聴かない。ソマリでかかっている音楽は99パーセント、ソマリ人がソマリ語で歌うソマリ・ミュージックだ。ネットを使う若者たちは、ユーチューブで音楽動画を探して見ているが、それもほとんどは、欧米在住のソマリ人シンガーの映像である。ソマリ人はものすごく「内向き」な人たちなのだ。もともと遊牧民だから、移動に抵抗がない。いとも簡単に外国に行ってしまう。その一方、行く先々でソマリ人のコミュニティを作り、その中で暮らす。外国にいるソマリ人は300万人もいるとされているが、外国人と結婚する人は1パーセントもいないという。
その後、著者はソマリ人の家庭料理を食べる機会を得、よりソマリ文化を知ることとなる。
さて、ワイヤッブは、前述のとおり、ホーン・ケーブルTVを立ち上げた人物だが、著者が日本に帰っていた間に、大統領の側近の汚職の追及に熱を上げ過ぎたため、政府の武力によって、強制的にテレビ局から排除されていた。しかし、彼のスタッフのデモ行進を他の支局によってネット配信することで、彼らに同調する人が増え、それが国際的な問題に発展し、国連加盟を望む政府はワイヤッブらへの弾圧を3日で止めることとなった。
ホーン・ケーブルTVは、インタビューを受ける政治家が払う礼金、そして何よりも欧米にソマリ人のモスクを建てるための寄付を募る広告からの収入で経費をまかなっている。
ここまでの話はホーン・ケーブルTVの過去の話だが、現在も問題を抱えていた。セメント利権疑惑を追及していたのだが、セメント会社がホーン・ケーブルTVのオーナーを抱き込むことに成功してしまったのだ。ワイヤッブはホーン・ケーブルTVを辞めようと思っていると著者に語った。著者はソマリと唯一の接点だった場所を奪われると思い、慄然とする。
第二章 里帰りのソマリア(2012.3)
4回目のソマリランドへの到着時、著者を迎えてくれに来てくれたのは、ホーン・ケーブルTVモガディショ支局の人々だった。モガディショを首都とする南部ソマリアの人々は、既に内乱を終わらせているソマリランドに対して対抗意識をもっている様子を見せた。内乱がまだ続く南部ソマリアを取材するのには、護衛兵を雇うなど、多くの出費が強いられるが、今回は前回よりも要求される額が跳ねあがっていた。これまで南部ソマリアでは外国人ジャーナリストが何人も殺されてきたと言う。そして三泊四日の南部ソマリア滞在ではモガディショ市内から出られなかった。戦場近くに行くこともできなかった。だが、三軒もの一般家庭にお邪魔することができた。治安の悪さにもかかわらず、モガディショの方がソマリランドの首都ハルゲイサより敷居は低かった。(明日に続きます……)
さて、高野秀行さんの ‘15年作品『恋するソマリア』を読みました。
第一章 片思いのソマリランド(2011.10~2012.3)
著者が初めてソマリの地を踏んだのが2009年の6月。2回目が2012年の7月から9月にかけて2ヵ月あまり。ソマリ語は難しい。2回目のソマリ行きから帰国し、1ヵ月経った頃、著者は焦っていた。ソマリ語を忘れていく。前回の旅で、著者はアフリカ東部のソマリ人居住域で放映されている衛星放送の国際ソマリ語テレビ局〈ホーン・ケーブルTV〉の東アジア支局代表に任命してもらっていた。いかんせんソマリ人は元来遊牧民で「兆速」である。著者は在日ソマリ人の早稲田大学への留学生アブディラフマンとサミラの兄妹にソマリ語を教えてもらうことにする。
2ヵ月ほどして、ホーン・ケーブルTV東京支局の立ち上げを真剣に考え出したが、なかなかうまくいかない。そこで考え出したテーマは「日本の中古車輸出事情」だった。東京にある中古自動車の輸出を主とした専門商社の新聞広告をソマリで出すこととし、著者は3回目のソマリ訪問とあいなる。
ソマリランドの中心地ハルゲイサにあるホーン・ケーブルTVを訪ね、そこでの旧友ワイヤッブに再会した。ソマリランド共和国建国後、最初にマスメディアを作った人だ。ワイヤッブの協力を得て、ソマリランドの複数の新聞社に中古車輸入会社の広告を載せてもらおうとするが、まともな広告を載せてくれたのは2紙のみだった。
そこで今度は直接の営業をするため、精神を高揚させるカートの宴会場であるマフラーシュに連れていってもらった。しかし、問い合わせの電話は一つも来ず、著者の努力は水の泡に。
さて、著者は30年近く世界の各地を歩いてきた経験から、人間集団を形作る内面的な三大要素は「言語」「料理」「音楽(踊りを含む)」と思うようになっていた。ソマリ人は驚くことに、誰も西洋の音楽を聴かない。ソマリでかかっている音楽は99パーセント、ソマリ人がソマリ語で歌うソマリ・ミュージックだ。ネットを使う若者たちは、ユーチューブで音楽動画を探して見ているが、それもほとんどは、欧米在住のソマリ人シンガーの映像である。ソマリ人はものすごく「内向き」な人たちなのだ。もともと遊牧民だから、移動に抵抗がない。いとも簡単に外国に行ってしまう。その一方、行く先々でソマリ人のコミュニティを作り、その中で暮らす。外国にいるソマリ人は300万人もいるとされているが、外国人と結婚する人は1パーセントもいないという。
その後、著者はソマリ人の家庭料理を食べる機会を得、よりソマリ文化を知ることとなる。
さて、ワイヤッブは、前述のとおり、ホーン・ケーブルTVを立ち上げた人物だが、著者が日本に帰っていた間に、大統領の側近の汚職の追及に熱を上げ過ぎたため、政府の武力によって、強制的にテレビ局から排除されていた。しかし、彼のスタッフのデモ行進を他の支局によってネット配信することで、彼らに同調する人が増え、それが国際的な問題に発展し、国連加盟を望む政府はワイヤッブらへの弾圧を3日で止めることとなった。
ホーン・ケーブルTVは、インタビューを受ける政治家が払う礼金、そして何よりも欧米にソマリ人のモスクを建てるための寄付を募る広告からの収入で経費をまかなっている。
ここまでの話はホーン・ケーブルTVの過去の話だが、現在も問題を抱えていた。セメント利権疑惑を追及していたのだが、セメント会社がホーン・ケーブルTVのオーナーを抱き込むことに成功してしまったのだ。ワイヤッブはホーン・ケーブルTVを辞めようと思っていると著者に語った。著者はソマリと唯一の接点だった場所を奪われると思い、慄然とする。
第二章 里帰りのソマリア(2012.3)
4回目のソマリランドへの到着時、著者を迎えてくれに来てくれたのは、ホーン・ケーブルTVモガディショ支局の人々だった。モガディショを首都とする南部ソマリアの人々は、既に内乱を終わらせているソマリランドに対して対抗意識をもっている様子を見せた。内乱がまだ続く南部ソマリアを取材するのには、護衛兵を雇うなど、多くの出費が強いられるが、今回は前回よりも要求される額が跳ねあがっていた。これまで南部ソマリアでは外国人ジャーナリストが何人も殺されてきたと言う。そして三泊四日の南部ソマリア滞在ではモガディショ市内から出られなかった。戦場近くに行くこともできなかった。だが、三軒もの一般家庭にお邪魔することができた。治安の悪さにもかかわらず、モガディショの方がソマリランドの首都ハルゲイサより敷居は低かった。(明日に続きます……)