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奥田英朗『我が家のヒミツ』その7

2016-11-26 07:32:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
 むしゃくしゃするので、その足でパパの稽古場に行くことにした。メールしたら、〈見学ならいつでもいいよ〉と返事をくれたのだ。打ち合わせが終わると、近くの洒落たカフェに連れて行ってくれた。アンナは離婚の理由を尋ねた。「離婚の理由かあ……。お互い若かったからね。我を張ることもあったし。でもいちばんの原因はパパの留学かな。アンナが生まれてすぐの頃、当時の文部省の支援でイギリスに国費留学出来ることになってね。パパ、どうしても本場で演劇の勉強をしたかったから、それでおかあさんとアンナを日本に残して、一人で二年間留学しちゃったわけ。まったく自分勝手だよね。おかあさんに見限られたのは当然だと思う。でも大学生になったら、アンナも留学するといいよ。世界が実感出来るしね」「わたしは来年したいの。カナダかオーストラリア。でもお金がかかるから行けそうにない」アンナはここでうつむいた。心の中でパパの言葉を期待しながら。けれどパパは、一拍置いてから「じゃあ、しょうがないね」と言った。あてがはずれてがっかりしたが、自分からはやはり言えなかった。でも意思は伝えたのだから、次はもっと話しやすい。
 家に帰ったのはすっかり日が暮れてからだった。母が「寄り道するならメールをちょうだい」と小言を言う。「パパのところ」アンナが答えると、また母の表情が曇った。「パパ、イギリスに留学してたんだってね。しかも国費で」「白川さんが言ったの?」「うん。いろいろ若い頃の話をしてくれた」「アンナ、まさか留学費用を出して欲しいとか、そういうことは言ってないよね」「言っちゃいけない?」「言ったの?」「まだ言ってないけど。ねえ、わたし、パパの家で暮らしちゃだめかな」「アンナ、本気で言ってるわけ?」「本気だけど」「わかりました。おとうさんと相談します。前にも言ったけど、アンナは16歳になったのだから大人扱いします。その代わり、行ったり来たりなんて、都合のいいことは許しません。あなたももう一度考えてください」母は突き放したような口調で言った。
 翌日部活に行くと、まずは若菜と仲直りをした。その後、若菜は言った。「あのさあ、蒸し返すようだけど、アンナがパパの養女になるとか、留学費用を出してもらうとか、やっぱ考え直した方がいいよ。ゆうべ、わたしもおとうさんにアンナの話をしたのよ。そしたら、育ての親にマジで同情して……。友だちならちゃんと諭(さと)しなさいって言うの。わたし、おとうさんの話を聞いてたら、確かにそうだなあって思って……。だってこれまでアンナを育てたの、今のおとうさんじゃない。そこにセレブなパパが現れたからって、乗り換えられたら、マジで悲しいよ」彩也香が珍しく真面目な口調で言った。「うちのおとうさんが言うには、男は甲斐性を比べられたら、立場がないんだって。アンナのおとうさんは、カッコよさでもお金でもステイタスでもパパにはかなわなくて、そのうえアンナとは血がつながってないわけじゃん。もしアンナがパパになびいたら、引き止めようがないっていうか、黙って見てるしかないわけじゃん。それは悲しいよ。わたしさあ、アンナのおとうさん、好きだよ。やさしいし、真面目だし」「わたしも好き。台風の日、学校まで車で迎えに来てくれて、わたしたちまで家に送ってくれたじゃない。うちのおとうさんなら絶対にしないよ」言われてみれば思い当たる節はあった。うちの父はよその父親より家族思いだ。「とにかく、ゆっくり考えること」若菜がアンナの肩に手を置いて言った。「どっちかを選べなんて酷だけど、二股はよくないよ。それからもうひとつ、うちのおとうさんが言ってたこと。もしもアンナのパパが、生みの恩より育ての恩ということがわかってる人間だったら、アンナのおとうさんを差し置いて留学費用は出さないだろうって。それから、わたし思ったんだけど、アンナのおかあさんとパパの離婚話より、おかあさんとおとうさんの結婚話の方が絶対に面白いと思うよ。だって子供がいる女の人を好きになってプロポーズしたんでしょ。きっと周囲の反対にもあったはずだし、それでも結婚したっていうのは大恋愛じゃない。アンナのおとうさん、情熱家なんだって」「わたし、とりあえず留学は考え直すわ」アンナが言った。二人が慰めてくれる。ここで「考え直す」から「取りやめる」に気持ちが進んだ。「わたし、パパともしばらく会うのやめるわ。実の父親がどんなんかわかって、一応気も晴れたしね」「そうとなったら、おとうさんに言って安心させてあげなよ」「うん、同感」「わかった」アンナの中で、波立っていた気持ちが急速に鎮まった。(また明日へ続きます……)