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奥田英朗『我が家のヒミツ』その8

2016-11-27 04:03:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
 帰宅したアンナはふと父の両肩に手を置いた。「揉んであげる。クリスマスプレゼント」自然に出来た。父の肩を揉むなんて、小学生のとき以来だ。「お、うれしいなあ」父は表情を崩したが、どこか照れた感じがあった。さあ、なんて言おう。留学、やめたわ。実の父親とは、しばらく会わないことにする。心配かけてごめん--------。喉につっかえて出て来なかった。「お正月さあ、マルキューの福袋セールに並びたいから、おとうさん、車で連れてってくれない」「なんだ。そういうことか」父が笑っている。しばらく父の肩揉みを続けた。3分も続けたら言葉がいらなくなった。父がしあわせそうなのが、手に取るようにわかった。
「手紙に乗せて」
 母が53歳で死んだので、若林亨(とおる)は実家に戻ることにした。社会人2年生の亨は就職を機に家を出て、ワンルームマンションを借り、気ままな一人暮らしを楽しんでいたのだが、大学生の妹・遥(はるか)が、「おとうさんと二人きりはいや」と言いだし、それは自分だっていやに決まっているので、気乗りはしなかったが妹のことを思い、戻ったのである。母の死因は脳梗塞だった。平日に家で倒れ、夕方帰宅した妹が発見し、救急車で病院に運び込まれた。すぐに手術したが、意識が戻らないまま、息を引き取った。あまりに突然のことで亨はただ呆然とするばかりだった。あれから半月が過ぎたが、今でも信じられなくて、毎日台所から母の声が聞こえてきそうな気がする。
 三人になった若林家の朝は、それぞれがバラバラに朝食をとることから始まる。この日、亨が一階に降りて行くと父の姿がなかった。家の中を探したが見つからず、亨はなにやら心配になって来た。先日も夜中に父の姿が見えなくなり、妹と捜したら庭の物置で何か荷物を漁(あさ)っていた。何をしているのかと聞くと、本を探していると父は答えたが、床には、遥が小さい頃、母が作ったぬいぐるみが数個並べられていた。亨と遥は、何も言えなくなって引き下がった。父の目は赤く、今さっきまで泣いていたことがありありとわかったのだ。「わたし、家の周りを見てくる」遥が行きかけたとき、玄関のドアが開く音がした。「コンビニに行くついでに、堤防まで散歩してきた。今日は二人とも遅いのか」「たぶん」と亨が答える。亨は広告代理店勤務で、残業は毎日のことだ。「わたしもバイトで遅い」遥は駅前の学習塾で事務のアルバイトをしていた。「おとうさんは?」会話の成り行きで亨が聞くと、父は「うん? 定時に帰るけど」と軽く答えた。これまでいちばん忙しかったのは父で、中堅ゼネコンの管理職の父が平日に家で夕食をとることはほとんどなかった。それが、母が死んでからは毎晩7時過ぎには帰宅するようになった。会社が気を遣っているのは明らかで、妻が死んだことで、当分は仕事を減らすよう配慮があったものと思われた。母が死んで、残された家族にとって夕食がこれほど難事業になるとは思わなかった。まるで船頭を失った船である。
 会社では毎日仕事に追われた。亨が勤める広告代理店は伝統的に体育会系で、若手は厳しくしごかれるのが常だった。ただ、母が死んでからは、扱いが少しやさしくなった。しかし、三年先輩の福井だけは、亨が特別扱いされることが気に食わない様子で、部長や課長のいないところで、余計に厳しく当たったりした。福井は、母が集中治療室に入っていたときでも夜中に亨を電話で呼び出し、仕事を言い付けた。亨の印象では、総じて若い社員ほど、同僚の母親が死んだことに無頓着だった。対して中高年のおじさんたちは、みな一様に同情の色が濃かった。
 この日は、クライアントの見本市出展の手伝いに駆り出された。現場を仕切るのは福井で、亨はAD役として雑用全般に奔走した。そこへ石田部長が現れた。部長は亨に話かけた。「いや、ぼくもね、去年妻を亡くしているんだよ。あれは辛いもんだ。おとうさんも当分は仕事など手につかんよ。ちゃんと頭が働かないんだよ。それから君も当分は早く帰宅するように。仕事も大事だが家族に優先するものはない。君の年齢ではピンと来ないだろうけどね。なるべくおとうさんのそばにいてあげなさい。課長にも言っておくから」その日は最後のゴミ出しまで言い付けられ、家に帰ったのは午前零時過ぎだった。
 父は相変わらず元気がなかった。そして、どうやらあまり食事をとっていないらしい。父の会社での様子を聞いてみようと、遥とも相談して、父の昔の部下で、社宅時代にずいぶん遊んでもらった記憶がある杉田さんに頼むことにした。遥は言った。「こんなこと言ったらなんだけど、おとうさんが憔悴(しょうすい)してるから、まだ助かってるところがあるかな。おとうさんが気丈だったら、逆にわたしが苦しむかもしれないってこと。残された家族三人の哀しみが十だとしたら、そのうちの七ぐらいを今おとうさんが引き受けてくれてるのよ。だからおにいちゃんとわたしは残りの三で済んでる」「おまえ、頭いいな。就職、うまく行くよ」「でも当分は気をつけて見てないと。わたし、やっぱり朝ご飯作るわ」「じゃあ、後片付けはおれがやる」二人はうなずき合った。(また明日へ続きます……)