昨日の続きです。
夜は孝明と二人、家で晩御飯を食べた。孝明は「お袋が、来週の土曜日、埼玉の家で一緒に食事をしようって言ってるんだけど」と気乗りしなさそうに言った。敦美は、子供がいたらいいんだけどね、と言いそうになって口をつぐんだ。敦美は結婚した当初は子供が欲しかったが、どうやら授かりそうにないと感じ始めてからは、徐々にその気持ちが薄まり、子どもがいなくても仕方がないかと思うようになった。孝明は敦美と一緒にコンサートに行きたいと言った。「いいよ。でも寝ないでね」「寝ないさ」「前に寝たことあったじゃない」「あれは疲れてるときだったから」「じゃあ、疲れてないときに誘う」「うん、そうだね」孝明は苦笑いしている。
水曜日、大西さんが抜糸にやって来た。ブラボー! 土曜日は楽しかったですよ。心の中で話かける。もはや大西さんは敦美の精神安定剤だ。敦美はつい「30代の頃は何をしてたんですか?」と聞いてしまった。「ぼくの30代は、寝てたけどね」「寝てたんですか」「それはたとえだけど、少し蓄えがあったから、出来るだけ無為に時を過ごしていたことは事実」「どうしてそうしようと思ったんですか?」「人間なんて、呼吸をしてるだけで奇跡だろうって。ましてや服を着て、食事をして、恋をして、ピアノを弾いて--------」大西さんが思わずピアノと言い、そこで言葉を止め、敦美を見た。「君、何の話をさせるのよ」「すいません。すぐに準備します」敦美は恐縮して診察室へと走った。
気にしているせいか、不妊に悩む夫婦の話題が目に付くようになった。敦美は、どうしても子供が欲しいと奔走する人たちの意思は尊重しつつ、自分とは種類がちがうなあと距離感を覚えるのも事実だった。
土曜日の午後は、大西さんのコンサートに一人で行った。孝明が「来なくていいよ」と言うので、埼玉の実家で晩御飯を食べる件はパスした。演奏はやっぱり素晴らしかった。演奏が終わったとき、真っ先に立ち上がり拍手をした。大西さんがこちらを見た。きゃっ、まずい。敦美は慌ててパンレットで顔を隠した。
夜、孝明は10時過ぎに帰ってきた。「お義母さん、何か言ってた?」敦美が恐る恐る聞くと、孝明は「別に何も」と答え、柴犬のように目を細めた。この顔は機嫌のいい印だ。話題は大西さんのことになった。「そろそろ大西さんも怪しむんじゃないの? どうして自分の都合のいい日を、この事務の女の子はピンポイントで指定してくるんだって」「そうね。でも、怪しんでくれたらうれしい」大西さんとの日々は、敦美の中ではもはやゲーム化していた。
翌日の日曜日、義姉から電話があった。孝明は休日出勤だ。「ゆうべね、母が孝明をつかまえて、子供が出来ないのなら、早いうちに病院に行って診てもらって、それで問題があるのなら治療を受けてほしいって言ったの。そしたら孝明ね、自分たちは自然に任せる、検査すら受けたくないって、怖い顔で突っぱねたのよ」敦美は驚いた。「子供が出来ないのは誰のせいでもないし、単なる巡り合わせに過ぎない。よそとちがうからって、そんなことでおれたち夫婦はしあわせを見失ったりはしない、今度その話をしたら、おれは二度とこの家の敷居をまたがないって、そう言ったのよ」敦美はにわかには信じられなかった。「かっこよかったのよ。女房は自分が守るって、そういう決意が表れていた。孝明が一人で来たのって、きっと自分の母親に向かってそれを言いたかったからじゃないかなあ。父も横で感動してたみたい」電話を切ったらとめどなく涙があふれた。
大西さんが治療にやって来た。経過は良好だ。この日は受付で診察カードを出すなり、「今日は何か聞きたいことあるの?」と先回りして言って来た。「あ、ええと……大西さんの人生で諦めてきたことって何ですか?」「これまた突拍子もない」「すいません。わたし、結婚してますが、どうやら子供が出来そうになくて……」「そう。ぼくも子供がいないけど、諦めるも何も、生まれてこのかた人生の青写真を描いたことがない。設計図がないから、手にしたパーツの寸法が合わなかったとしても、じゃあ別のを探そうとなる。だから気にもならない。プランAしかない人生は苦しいと思う。一流の人はどんなジャンルでも、常にプランB、プランCを用意し、不測の事態に備えている。つまり理想の展開なんてものを端(はな)から信じていない。あなたも……」ここで敦美の胸の名札に目をやった。「小松崎さんも、プランBやCを楽しく生きればいい。そう思いませんか?」「思います」敦美は胸が熱くなり、大きくうなずいた。「ところで、先週の土曜日、ある場所で小松崎さんにそっくりの女の人を見かけたんだけど、あれは他人の空似なのかなあ」「他人の空似でお願いします」「わかった。それで行こう」ずっとファンだったピアニストの大西さんが、目の前で、肩を揺すって笑っている。(また明日へ続きます……)
夜は孝明と二人、家で晩御飯を食べた。孝明は「お袋が、来週の土曜日、埼玉の家で一緒に食事をしようって言ってるんだけど」と気乗りしなさそうに言った。敦美は、子供がいたらいいんだけどね、と言いそうになって口をつぐんだ。敦美は結婚した当初は子供が欲しかったが、どうやら授かりそうにないと感じ始めてからは、徐々にその気持ちが薄まり、子どもがいなくても仕方がないかと思うようになった。孝明は敦美と一緒にコンサートに行きたいと言った。「いいよ。でも寝ないでね」「寝ないさ」「前に寝たことあったじゃない」「あれは疲れてるときだったから」「じゃあ、疲れてないときに誘う」「うん、そうだね」孝明は苦笑いしている。
水曜日、大西さんが抜糸にやって来た。ブラボー! 土曜日は楽しかったですよ。心の中で話かける。もはや大西さんは敦美の精神安定剤だ。敦美はつい「30代の頃は何をしてたんですか?」と聞いてしまった。「ぼくの30代は、寝てたけどね」「寝てたんですか」「それはたとえだけど、少し蓄えがあったから、出来るだけ無為に時を過ごしていたことは事実」「どうしてそうしようと思ったんですか?」「人間なんて、呼吸をしてるだけで奇跡だろうって。ましてや服を着て、食事をして、恋をして、ピアノを弾いて--------」大西さんが思わずピアノと言い、そこで言葉を止め、敦美を見た。「君、何の話をさせるのよ」「すいません。すぐに準備します」敦美は恐縮して診察室へと走った。
気にしているせいか、不妊に悩む夫婦の話題が目に付くようになった。敦美は、どうしても子供が欲しいと奔走する人たちの意思は尊重しつつ、自分とは種類がちがうなあと距離感を覚えるのも事実だった。
土曜日の午後は、大西さんのコンサートに一人で行った。孝明が「来なくていいよ」と言うので、埼玉の実家で晩御飯を食べる件はパスした。演奏はやっぱり素晴らしかった。演奏が終わったとき、真っ先に立ち上がり拍手をした。大西さんがこちらを見た。きゃっ、まずい。敦美は慌ててパンレットで顔を隠した。
夜、孝明は10時過ぎに帰ってきた。「お義母さん、何か言ってた?」敦美が恐る恐る聞くと、孝明は「別に何も」と答え、柴犬のように目を細めた。この顔は機嫌のいい印だ。話題は大西さんのことになった。「そろそろ大西さんも怪しむんじゃないの? どうして自分の都合のいい日を、この事務の女の子はピンポイントで指定してくるんだって」「そうね。でも、怪しんでくれたらうれしい」大西さんとの日々は、敦美の中ではもはやゲーム化していた。
翌日の日曜日、義姉から電話があった。孝明は休日出勤だ。「ゆうべね、母が孝明をつかまえて、子供が出来ないのなら、早いうちに病院に行って診てもらって、それで問題があるのなら治療を受けてほしいって言ったの。そしたら孝明ね、自分たちは自然に任せる、検査すら受けたくないって、怖い顔で突っぱねたのよ」敦美は驚いた。「子供が出来ないのは誰のせいでもないし、単なる巡り合わせに過ぎない。よそとちがうからって、そんなことでおれたち夫婦はしあわせを見失ったりはしない、今度その話をしたら、おれは二度とこの家の敷居をまたがないって、そう言ったのよ」敦美はにわかには信じられなかった。「かっこよかったのよ。女房は自分が守るって、そういう決意が表れていた。孝明が一人で来たのって、きっと自分の母親に向かってそれを言いたかったからじゃないかなあ。父も横で感動してたみたい」電話を切ったらとめどなく涙があふれた。
大西さんが治療にやって来た。経過は良好だ。この日は受付で診察カードを出すなり、「今日は何か聞きたいことあるの?」と先回りして言って来た。「あ、ええと……大西さんの人生で諦めてきたことって何ですか?」「これまた突拍子もない」「すいません。わたし、結婚してますが、どうやら子供が出来そうになくて……」「そう。ぼくも子供がいないけど、諦めるも何も、生まれてこのかた人生の青写真を描いたことがない。設計図がないから、手にしたパーツの寸法が合わなかったとしても、じゃあ別のを探そうとなる。だから気にもならない。プランAしかない人生は苦しいと思う。一流の人はどんなジャンルでも、常にプランB、プランCを用意し、不測の事態に備えている。つまり理想の展開なんてものを端(はな)から信じていない。あなたも……」ここで敦美の胸の名札に目をやった。「小松崎さんも、プランBやCを楽しく生きればいい。そう思いませんか?」「思います」敦美は胸が熱くなり、大きくうなずいた。「ところで、先週の土曜日、ある場所で小松崎さんにそっくりの女の人を見かけたんだけど、あれは他人の空似なのかなあ」「他人の空似でお願いします」「わかった。それで行こう」ずっとファンだったピアニストの大西さんが、目の前で、肩を揺すって笑っている。(また明日へ続きます……)