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2005年10月杭州市の西湖に行きました。日本の文化の西湖に対するあこがれは強い。

2015-11-28 | 「私がお話し」します。

杭州が日本文化に大きな影響 至る所で見られる西湖の縮図

人民網日本語版 2015年11月26日15:08
 

今から500年前の冬の初め、59歳だった室町時代の禅僧・万里集九は、江戸城を離れて、鎌倉へ行き、六浦(金沢)名刹・称名寺を訪れた。その目的は、中国杭州にある西湖から移植された梅を見るためだったと言われている。杭州日報が報じた。

万里集九

元(1271-1368年)や明(1368-1644年)の時代にかけて、日本の禅僧約400人が中国へ渡り、その多くが、杭州へ行った。しかし、当時、 中国への「留学」は決して容易でなく、ほとんどの日本の僧侶が、西湖に行って自分の目で詩に頻繁に出てくる絶景を見ることはできず、ただそれを想像するし かなかった。

五山禅林の禅僧だった万里集九もその一人で、西湖を訪れたことはなく、ただ、西湖の情景に思いを馳せるのみだった。

「五山」とは、中国の南宋時代(1127-1279年)における寺格の一つで、禅寺を五山の最上位に置き、政府が住持(住職)を任命する。鎌倉幕府時代の 日本にもこの寺格があり、「五山十刹」の禅僧がいて、高待遇を受けていた。そして、禅や漢詩を研究する漢文学に参加し、禅宗を通して中国文学に触れ、「五山文学」が生まれた。

「五山文学」の代表的な人物が万里集九。称名寺に来た万里集九は、梅の花がまだ咲いていなかったため、すぐに帰って行ったとされている。

その後、それを知った鎌倉の建長寺の僧侶も称名寺へ行き、梅の花を摘み、江戸城へ送った。万里集九はそれを生まれ故郷の美濃国へ持っていき、梅の花のために枝を描いた。梅の花を見て、杭州の孤山へ行き、詩人・林逋と一緒にそれを見ることを思い描いていたのだ。

日本の文化の西湖に対するあこがれは、今の日本の多くの都市でも見ることができる。例えば、東京の小石川後楽園、旧浜離宮恩賜庭園、広島市の縮景園、和歌山市の養翠園、水戸市の千波湖などがあり、どれもが西湖の縮図だ。

「人民網日本語版」2015年11月26日

西湖の小型遊覧船。撮影・おおはしみつる

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日米政府の強硬手段に、ご先祖様の怒りが爆発!ここは大昔から沖縄の土地だ!この文化財を見よ!

2015-11-28 | 琉球新報より

県教委、シュワブ土器を文化財認定 新基地工事へ影響必至

 県教育委員会は27日、名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブ内の沿岸で発見された土器や石器など全17点を文化財として認定した。発見場所は米軍普天間飛行場移設に伴う、名護市辺野古への新基地建設の埋め立て予定地となっており、今後の工事への影響は避けられない。

 名護市教育委員会と県は現場一帯を遺跡に認定するために調整に入る。市教委は複数の文化財が見つかっている場所として、発見現場一帯を遺跡の「遺物散布地」に認定するよう県に求め、今後シュワブ内にある既存の遺跡との関連性を含めて調整を進めていく。
 遺跡に認定された場合、試掘調査などが必要になり、工事の進捗(しんちょく)に影響を与える可能性が高い。現時点での遺物散布地としての認定が見送られた場合も、遺跡認定に向けて、発見現場で文化財の分布調査を実施する可能性がある。
 県教委は、発見された場所がシュワブ内の遺跡の中では最寄りのヤニバマ遺物散布地と大又遺跡と距離が離れており、両遺跡との関連性を見いだすのは難しい としている。同じ現場で2月に見つかった文化財の碇石(いかりいし)と今回新たに認定された土器と石器について、年代に開きがあるなどの理由から、関連性 は薄いとしている。

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