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一年に一度の参道清掃、今年は近くの児童公園にも足をのばしました。ご苦労様でした。

2015-11-29 | 市民のくらしのなかで

 11月29日、 向日市向日町老人会・長寿会(大橋満会長)は、朝10時から21人が集まり、向日神社の参道・北山公園・西ノ段児童公園の落ち葉広い清掃を自主的におこないました。

 朝からよいお天気になり、「無理をせず体調にあわせて」45分間ちょっとよい汗を流しました。おかげでこんなに美しくなりました。



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植民地からの独立を目指した反ファシスト人民自由連盟のアウン・サン総裁がスー・チーさんの父 親です。

2015-11-29 | 世界の変化はすすむ

ミャンマーのスー・チー氏はどんな人? 早稲田塾講師・坂東太郎の時事用語

THE PAGE 11月29日(日)14時0分配信

 

 ミャンマーの国会議員選挙(上下両院)の開票結果が出そろい、アウン・サン・スー・チーさんが党首の国民民主連盟(NLD)が改選議席491議席の約8 割を占める390議席を獲得し、政権交代が実現しました。テイン・セイン現大統領は軍部の流れを引く政権だったのでミャンマーの民主化がいっそう進むと期 待されていますが、スー・チーさん自身は憲法の規定により大統領になれません。

 そこで、大統領にもなれないのにどうしてこれほどスーチーさんは注目され、期待されているのか? について考えていきます。

●「独立の指導者」の娘

 ミャンマー(ビルマ)の近現代は激動の歴史です。イギリス植民地からの独立を目指した反ファシスト人民自由連盟のアウン・サン総裁がスー・チーさんの父 親です。彼が暗殺された後に総裁となったウー・ヌ氏らによって1948年に独立を果たし、社会主義的な政策を推し進めたものの内外の政争に明け暮れて不安 定な状態が続きました。

 62年のクーデターで政権を握ったネ・ウィン将軍は以後、独裁政権を敷いていきます。軍の勢力をバックにいかなる外国の資本や人の流入も原則として認め ない「鎖国」政策を用います。こうした容易に外国人の入国を許さない国は当時、ホッジャ独裁のアルバニアと双璧で典型的な「謎の国」でした。

 80年代後半に入ると開放経済圏ともソ連を中心とする計画経済圏とも付き合わない「ビルマ式社会主義」の経済的な行き詰まりは甚だしくなり、また長期独裁への反発も日増しに強まっていきます。

 1949年に当時のビルマ首都(当時)ラングーン(現在のヤンゴン)に生まれたスー・チーさんは15歳の頃からインドで学んだのを皮切りにイギリスの大学を卒業。主にイギリスで研究生活をしてきました。イギリス人と結婚(死別)しています。

●民主化の旗手

 そんな彼女が母親の見舞いで帰国した1988年、学生運動に端を発した大規模な民主化要求が広く市民の抗議活動へと発展し、ついにネ・ウィン退陣へと追 い込みました。さなかに民主化を支持する演説を行ったのが民主化勢力の大評判となります。あでやかな姿と「アウン・サン将軍の娘」という血統および国際性 であっという間にヒロインとなったのです。

 運動そのものはクーデターを起こした軍によって徹底的に弾圧されました。それでもスー・チーさんは90年に予定されていた総選挙を勝ち抜くべくNLD結 党にまい進し大勝利を収めます。しかし軍政はこの結果を葬り去って政権に居座りました。国際世論はこの状況に沸騰し、軍政を批判するとともに対抗する スー・チーさんを民主化のシンボルとみなして91年にはノーベル平和賞が授与されました。

 スー・チーさんは以後、長期間にわたり断続的な自宅軟禁状態に置かれるようになりました。短期間の解放をされても民主化要請と軍事独裁批判の姿勢は変わ らず、再び、三度と軟禁生活に逆戻りを余儀なくされてきました。アメリカや欧州西側主要国は一貫してスー・チーさん支持を表明し続けます。

 なぜ軍政にとって目の上のたんこぶであるスー・チーさんを政治犯として刑務所送りにするのでも殺害するのでもなく軟禁という手段を続けたかについてはさまざまな説があります。

 国内的にはやはりアウン・サン将軍の長女という点が大きいでしょう。軍を率いて独立にまい進した人物の子を抹殺すれば軍の正統性が揺らいでしまいます。 国際的にはノーベル平和賞を授与されるなど高い知名度を誇っていて(ゆえに邪魔でもあったのだけれど)うかつに手を出せば今をはるかに超える国際社会の圧 力を受けかねないとの不安もあったようです。いっそ海外に渡ってくれればと思ってもスー・チーさんが母国での運動を選んだためできませんでした。

 

●復活

 2008年、軍政は1988年のクーデターで停止されたままになっていた憲法を改正し、国民投票を経て成立しました。これが現憲法で国会議員664人の うち4分の1は軍人議員で、改正には4分の3以上が必要としました。軍が気に入らない改正案は成立できなくしたのです。また家族に外国籍がいる者は大統領 になれないという縛りも設けました。スー・チーさんはこの時点で夫とは死別していましたが、子ともはイギリス国籍で、事実上、彼女が就任できないようにす る条項と思われます。

 こうした安全装置を用意した上で10年には選挙を実施して民政へ移管すると発表し、軍政と表裏一体の「連邦団結発展党」(USDP)が圧勝した後に、 スー・チーさんの軟禁を解きました。USDPを作ったテイン・セイン氏が翌年大統領に就任。当初は「軍服をスーツに着替えただけで何も変わらない」と冷や やかに見られていました。

 ところが就任後、経済の開放や政治犯の釈放、選挙に国際監視団を入れるなど矢継ぎ早の改革を行い、アメリカなどの経済制裁を緩和して「鎖国」状態から一 転して地下資源も豊富な人口5000万人を越える有望な市場としておどり出ました。その一助となったのがスー・チーさんの軟禁状態の解除と政治活動の再開 だったのです。

 新憲法に反対ながら12年の補欠選挙で当選して国会議員となったスー・チーさんはNLD党首として15年の議会選挙に臨みました。勝っても党首が大統領 になれないから伸び悩む材料であろうともくろんでいたUSDPの目算は大きく外れ、軍人枠を含む664議席(うち7議席が投票中止)の過半数になる333 議席を大幅に上回る地滑り的勝利を収めました。

 一方のUSDPは42議席と惨敗。軍人枠166を加えてもNLDには遠く及びません。テイン・セイン氏の改革は評価しても、それまで長く続いた軍政への嫌悪感が有権者のなかで勝ったのでしょう。

●今後は?

 さて今後の展開です。まず大統領が誰になるのかですが、恐らくスー・チーさんが選んだ者でしょう。NLDは彼女の圧倒的な人気で支えられてきた一本足打 法の政党で本人も「(大統領の)上に立つ」「私がすべての決定を下す。大統領には何の権限もない」と言い切っているのを不安視する向きもあります。文字通 りに取れば新政権はスー・チーさんの「院政」となり憲法を無視した体制だと軍につけ込まれる危険があります。応援してきた欧米も、問題ある憲法下とはいえ 「院制」は支持できそうにありません。

 発言の真意は08年憲法の改正にあると擁護する声もあります。あつれきを生むか軍との融和を果たして改正へと持っていけるかが腕のみせどころです。

 意外とうまく行くのではないかという楽観的観測もあります。考えてみればテイン・セイン氏も初めはこんなに改革できると誰も思っていなかったのに成し遂げました。だから新大統領も現時点で無名でもスー・チーさんと軍のバランスを保ちながら運営できるのではないかと。

 国内外で最も重要なのは経済です。スー・チーさんは選挙中「報復はしない」「抑圧してきた人たちとさえ協力する」と発言していました。アパルトヘイト (人種隔離政策)で抑圧されてきたにも関わらず、大統領になっても報復しなかった南アフリカのネルソン・マンデラ氏のように、前政権の産物でも良いところ は継承して不要な摩擦を生まないようにしないと、09年に政権を奪取した日本の民主党のように政権担当能力がないと国民から見捨てられる可能性もありま す。

 幸か不幸か新しいNLD政権は運営面で軍と協力せざるを得ません。4分の1の軍人議員と小さくなったとはいえ数十の議席を持つUSDPと話し合わなけれ ばなりませんし、憲法は安全保障や治安維持に関わる国防・内務・国境の3大臣を軍が選ぶと定めています。いわば最初から軍との連立政権のような形にならざ るを得ず、どちらかが孤立感を深める結果にはならないだろうとの見立てです。

 その名を世界に轟かせてから四半世紀以上になるスー・チーさんの動向から今後も目が離せません。

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