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連載NO.9 NO9 朝鮮通信使が通った京都ゆかりの場所を訪ねる

2019-12-13 | 京都の在日朝鮮人の方々

2、朝鮮通信使が通った京都ゆかりの場所を訪ねる

  伏見区、淀の納所(のうそ)

 日朝協会京都府連は「通信使の通った道」をできるだけ忠実に通り、休憩したお寺にもたちより住職から古文書を見せていただきながら説明を聞いたことがありました。当時の絵画や屏風絵・書・古文書などが、各お寺に、大切に保管されています。その順序に沿ってご案内いたします。

  江戸の通信使は大阪から淀川をのぼり、

 京都・淀の納所で下船し京都市内に徒歩で入りました。現在の巨椋池・巨椋(おぐら)の地名がありますが、当時の巨椋池は現在の淀競馬場周辺に広がり、桂川と宇治川と木津川の合流地点が、納所から美豆(みず)あたりまで含めて大変広くなっていました。淀城はこの三川合流の複雑な地形を利用してその中に築城されていたのです。(移設前の旧淀城跡が納所にあります。)

 現在の「桂川宮ノ前橋」を東に渡ったあたりに、大きな船着場がありました。現在「唐人雁木旧跡」の碑がたっています。本物の石碑は、近くのお寺に保管されています。唐人とは中国人のことをさしていましたが、外国人の意味や朝鮮人という意味もあります。 雁木とは石の階段状になった船着き場のことです。

旧国道一号線は淀川の一部を埋め立てて造ったもので、その両側の民家は一段高い場所に建てられており江戸時代の淀川の面影を残しています。

  鳥羽 実相寺

  鳥羽 実相寺〒601-8172京都市南区上鳥羽鍋ヶ渕町10-1TEL:075-691-9648

 通信使は,淀で上陸した後,鳥羽街道を北上します。途中,実相寺(南区上鳥羽鍋ヶ淵町)が休憩場所とされ、正使・副使・従事官の三使以下、衣冠を改めて入洛に備えました。通信使が書き残した記録によると、この近辺は水田のほか、木綿や野菜の栽培も盛んで、特に水車の技術に関しては、その技術を持ち帰り、朝鮮の農場に取り入れたと言われています。『京都御役所向大概覚書』に「正徳六年申年、鳥羽實相寺本堂、為修復、相撲為取申度之旨相願候、右寺は朝鮮人来聴之節、休息所罷成候ニ付、願之通同年日数 七日赦免」とあり、「朝鮮通信使」が實相寺を休憩場所として衣帯・衣服を着替え、京の都へ入っていったことがわかっています。

 第十次の朝鮮通信使も實相寺に立ち寄っていることが確実になっています。正覚山實相寺に至り公服に身を整え未の刻(午後二時)末に倭京(京都)に至り本国寺で旅装を解いた。寺舎は素晴らしく広大で一萬人も収容できるほどで、仏殿も華麗で木閣が翡翠色であった。と記録されています。

 「本国寺」あと 定宿「本国寺」

 定宿「本国寺」堀川五条 下京区堀川通五条下る柿本町

 現在この場所に本国寺はなく、大きな石碑がたっています。寛永13(1636)年以降,通信使は,享保4年(1719)の本能寺宿泊を除けば,すべて本国(圀)寺を宿舎として京都に滞在しています。宿館であった本国寺は,当代の文化人にとっては格好の交流の場であり、寛永14(1637)年に通信使が江戸からの帰りに立ち寄った際、漢詩人の石川丈山(いしかわじょうざん、藤原惺窩<ふじわらせいか>門人)が当寺を訪れ、一行の書記であるウォン・シク、号菊軒と筆談や詩文の応酬を行っています。

 この本国寺は、貞享2(1685)年より水戸藩主徳川光圀(みつくに)の庇護を受け、寺名を「本圀寺」に改めたと伝えられており、昭和46年には、山科区御陵大岩の現在地に堂舎を移しています。

相国寺  管長 有馬頼底さん

 相国寺 京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺 門前町701  

 「相」は「しょう」と読みます。顔の相、人相など、形を意味するときは「そう」と発音しますが、宰相、首相等という時は「しょう」と発音します。「相国」とは国をたすける、治めるという意味です。中国からきた名称ですが日本でも左大臣の位を相国と呼んでいました。

 相国寺を創建した義満は左大臣であり、相国であることから、義満のお寺は相国寺と名付けられました。また義満の時代は中国では明の時代でしたが、このとき、中国の開封に大相国寺という中国における五山制度の始まりのお寺がありました。この大相国寺の寺号を頂いて「相国寺」と名付けられたのです。

  中国、開封市の「大相国寺」は現在も存在しており、相国寺とは友好寺院の締結をしています。両寺院には友好の碑があります。(管長は有馬頼底氏です)

 大徳寺   

 京都市北区紫野大徳寺町53

 近世の大徳寺には朝鮮国の外交使節団が4度滞在しています。最初は天正18年(1590)のことです。(江戸以前)この時、朝鮮・中国へ侵略を準備していた豊臣秀吉 は朝鮮国王の朝貢入洛を求めた。これに対して対馬島主らが「秀吉の天下統一祝賀」に名目をすり替えて使節団派遣を朝鮮側に依頼し、実現にこぎつけた。一行 約300名は同年7月21日に大徳寺入りし、総見院などに宿泊した。

 やがて秀吉の命令で文禄(1592年)・慶長の役が始まる。

 慶長12年(1607)、戦後初めての朝鮮使節団約500名が当寺に宿泊した。徳川家康の国書に対する朝鮮国王の回答国書を携行し、あわせて戦中の民間 被虜人を連れ帰ることが目的だった。通信使の正使らは天瑞院、その他の随員は総見院、真珠院、護衛の対馬藩主や五山僧は興臨庵、聚光院、大仙院などで宿泊 した。京都所司代は蹴鞠や猿回しを呼んで歓待した。
 3度目は元和3年(1617)、4度目は寛永元年(1624)で、宿館には連行されて京都近辺で日本の主人に仕えていた被虜人が訪れ、帰国を促した通信使の随員たちから家郷の消息を聞いて働哭する場面もあった。

 本能寺   

 本能寺   京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522

 享保4年(1719)、徳川吉宗の八代将軍襲職を祝賀する目的で、江戸時代に入って9度目の朝鮮使節(通信使)475名が来日した。
 このうち大坂どまりとなった129名を除く346名が護衛の対馬藩主などと共に同年9月12日に鳥羽実相寺を経て入洛、本寺に一夜宿泊した。通信使の正使らは本堂に泊まり、塔頭の蓮承院は上宮、吉祥院は通訳官、本行院は五山僧などが利用した。その間、貫首以下の一山の僧侶たちは一時他寺などへ立ち退いたことが当寺の記録である『両山暦譜』に記されている。
 この夜、京都所司代の松平忠周らが挨拶に来て、将軍の命による饗宴の席が設けられた。このとき通信使の随員であった製述官が著した見聞記『海游録』では 本能寺のことを「壮麗なことは比すべきものがない」と述べている。江戸からの帰路もまた11月1日より3日まで本寺に滞在した。
 また護衛役の対馬藩主宗氏の一行やその他の護衛の日本人たちは本寺の周辺の寺院や民家に分宿した。

          


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