韓国・ 陜川(ハプチョン)平和の家紹介 韓国の広島といわれる由縁
いま、韓国ハプチョンは、韓国ドラマの撮影所や、伽椰山・海印寺のあるところとして、日本人の多くの方が「韓国観光旅行」で訪れる街です。
その一方韓国のヒロシマと言われ、この村から広島に出稼ぎや徴用、強制連行されてきた方も加わって相当多くの方々が戦中の広島に住んでいました。だから、原爆投下で多くの死亡者をだし大変な被害を受け、韓国人被爆者の多くががこの町の出身者なのです。
織井青吾氏の著書「韓国のヒロシマ村・ハプチョン」に、青吾氏の小学校の同級生・韓 仁守君を探しながら歩かれた1960~70年代の様子が詳しく描写されていますが、広島での韓国被爆者の戦後の生活の一端を知ることが出来ます。
私は、日本コリア広島の方と2011年10月23日はじめてハプチョンにいきました。そこで 韓 正淳さんという方にお会いして、「ハプチョン平和の家」の活動や「ご本人の生い立ち」などについてお聞きした。皆さんにぜひ知っていただきたいので紹介します。
韓 正淳さんは、一番右の方です。
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-韓正淳(韓国原爆二世患友会3代目会長)に聞きました。 文責 おおはし
韓国原爆二世患友会とは、1945年8月6日広島・8月9日長崎で原爆が投下されたところに祖父母、両親が居住されていた被爆者の子供の中で、被爆二世として苦痛を受けて生活している方々の集まりを「二世患友会」といいます。 私も被爆二世患者で自分の苦しみから原爆の被害について知ることになりました。 だが、私たちは核戦争がどれくらい多くの人々を殺し、私たちをはじめ、放射能での障害がどれだけ生み出され、現在もなおその戦争被害から抜け出せず、いつ終わるかも知れない苦痛な人生に苦しんでいる方々が沢山おられる事を知り、責任を取らない人たちに対して怒りでいっぱいです。
韓国で、去る2002年最初に原爆二世被害を明らかにすることになった初代韓国原爆二世患友会会長、故キム・ヒョンニュル様は先天性免疫グロブリンという稀貴病で肺機能が一般人の30%しかなく、少し疲れても、また風邪を引いても激しいせきのために夏でも長袖を着ていなければなりませんでしたし、学校生活と社会生活ができなかったのです。
幼いころから肺炎で数十回入退院を繰り返す生活をしながら自身の病気が遺伝性だと知ることになった後、お母様が原爆被害者であることを明らかにして、原爆の放射能により遺伝したのだと世の中に知らせました。
私一人でない、また他の被害者がいることを知り、韓国政府と日本政府に二世でかろうじて病魔と争って生きている人がいるという事実を認めさせて、困難な中で生きている被爆二世らを‘早く支援して頂き、そして救命’をしてくれと叫んで活動し続けました。
彼はとうとう病気が悪化して35才という若い年齢で亡くなりました。キム・ヒョンニュルさんの勇気ある志の人生にもっと多くの患友が続かなければなりません。
彼の後に続いた二代目ハン・チョンスク会長も大腿骨頭無血性壊死症 で両側脚に人工関節手術を受けました。 不便な体で苦痛を受けている二世患者を1人でも多く助けようと、彼らを一軒一軒尋ね歩きました。 3代目、私が会長を引き受けることになり、陳景淑事務局長と一緒になって最善を尽くして努力しています。病気が大変な中で、痛くて、無力な私たちにとってはあまりにも大きい責任ある仕事で、私たちの政府や日本政府にまで力が達し得なくて、帰ってくるのは、疲れ果てたからだとため息だけでした。
私たちの両親は被爆当時広島に住んでいました。(日本人として)強制徴用で連れて行かれ、「強制労働」させられ、そこで、原爆被害者になってしまいました、財産もなくなり乞食になっただけではなく子供らにまで原爆の放射能を引き継ぎ痛い苦痛を与えられてしまったのでした。 この実態をみていなければならない両親の心情は真っ黒に燃え上がる苦通そのものでした。日本政府は被爆認定さえせず何の保障も援助もしなかったのです。両親は被爆にあって何も持つものがなく「原爆被害者」というものだけを持って、故郷の陜川(ハプチョン)に舞い戻り大変な苦労をしながら、2男4女、6人の兄弟姉妹を育てました。
私は6兄弟姉妹中5番目に生まれましたが、幼い時から虚弱でよく倒れたりしました。私が十五才の時から痛い苦痛は始まりました。 だが、しばらくは、成長過程での痛みではないかと言われたりしましたが、ますます痛みは激しくなって、せっかく勤めた職場もやめることを繰り返していましたが、縁あってやっと結婚しました。 二人の子供のママになるまでがんばったのですが、もうこれ以上続ける事ができなくなりました。 病院に行って受けた診断結果は「大腿骨頭無血性壊死症 で両脚に人工関節手術を受けることになりましたが費用もありませんでした。
30代初めに手術を受けましたが一度の手術で終わるのではなく、人工関節寿命は10年、その後また手術を受けなければならなかったのです。その苦痛は到底話すことはできないほどでした。 しかし私を苦しめたのは自分のことだけではなかったのです。私の 長姉は62才なのに一生、目まいで苦痛を受けたし、二番目姉さんは腕関節手術を受けて三番目の姉さんは私のような人工関節手術を受け、兄さんは「心筋梗塞狭心症手術」を受けました、また姉妹全部紅斑という皮膚病で病んだし、6兄弟姉妹全部血圧薬を飲まなければなりませんでした。
三世になる私の息子は今27才で「先天性脳性マヒ」なので、いまだに自分でできることは何もなく、横になって生活しているのです。
これは明らかに、原爆放射能被害です。世界中の人に、私たちの家族のことを知って頂き、被爆者を出さない平和な世界にしたいのです。
今私たちの患友会の実情は次のようです。 韓国原爆二世患友の会員は500人余りで、先天性免疫グロブリン、大腿骨頭無血性壊死症 、精神分裂症、ダウン症候群、甲状腺、皮膚病、高血圧、糖尿病、クン弛緩症、肝臓癌、視覚障害、聴覚障害、心筋梗塞狭心症、各種癌など多様な病気を患っています。 また重い人々は30~40代になくなる患友らも増えていて、10才未満の年齢で亡くなった人も多くおられます。 痛いこと、苦しい事さえも話すことができなくて、死んでいきながらも病院費を心配しなければならないのが現在の原爆二世患友らの実情なのです。
すべての戦争は開始があれば終わりがあります。 勝利した国があれば敗れた国もあるだろうが、戦争の終わりは被害者だけ残ることです。 それよりもっと恐ろしいのが核戦争・核被害者です。
私たちの意志とは関係なく核の被害者の子供にとっては、生まれる日から戦争が始まるのです。 核戦争のトンネルは終わりがないのです。 このように長いトンネルで苦しんでいる私たちの苦痛は原爆被害者、強制徴用被害者、日本軍‘慰安婦’被害者のおばあさんに対する話に比べて歴史的に明らかにされていなかったので、世の中に知らされることもなく、私たち当事者だけが、その苦労を抱いて行かなければならない宿命なのでしょうか。決してそうではありません。
私たちが抱いて行くにはあまりにも荷物が重くて死ぬ程痛くて耐えることはできないのです。 その上に動くことができる人はそれでも自分人身の話も伝えることができるが、精神身体障害、ダウン症候群、視覚障害や聴覚障害を持たれた方々は認知能力が落ちて保護者なしでは外出も不可能なのです。
私たちのために激励と関心を持って支持して下さった方々がおられるので原爆被害者二世・三世らに対する‘先に支援後救命’という目的を達成するために努力して訴えているのです。
再びこの世の中に原子爆弾がなくなり、戦争がなくなることを望まずにはおれません。これ以上に多くの痛みがあってはならないのです。 いつかは私たちの政府や日本政府も認定するだろうという信頼一つで、力が及ぶところまで活動しようと思います。
長くて長いトンネルでまともに明かりを見られないまま亡くなった患友たちのためにも決して挫折しないで、天国にいらっしゃった方々は空で、私たちは土地で叫んで、また叫んで、日本政府と米政府が責任を持って補償するように心から望みたいのです。
韓国国会で、今年は必ず特別法案を制定されることを心から望みたいのです。
そうして2012年3月23~24日 徐勝氏(立命館大学)らによって「ハプチョン非核・平和大会」の開催が呼びかけられ 私も参加しました。
街角でまんづーを売る若きご夫妻