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日本語版新聞紹介

NO.36 日朝協会会員・佐藤知也さん(光陽出版社)平壌で暮らした12年の日々

2020-01-10 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会

NO.36

  佐藤知也(光陽出版社)「平壌で暮らした12年の日々」より紹介

 昭和13年・平壌に3万人の日本人が住んでいた。 全人口 40万人  本人・多田組住宅に住む

小学校3校、若松、山手、(旧市街地)、船橋(大同江東側)

1945年、小磯内閣、一年間授業停止  13歳以上 8・15まで休みだった。

終戦時の神社、(官弊社2・国幣小社8、一般神社69)・平壌破壊(国幣小社)放火、

8日間に放火・破壊136(神社・神詞・奉安殿)

8・15の放送夕方、国対は、護持されました。国対は、護持されたのでありますと連呼

 

平壌には、米軍の空襲はなかった。

8月24日、夕、ソ連軍先発隊300名入る

8月末、平壌放送局が、日本語から朝鮮語にかわる。  東條・・9月自殺

大陸の気候は、三寒四温といって、3日寒さがあり、4日暖かい日が繰り返される

 

1946年1月、平壌に居住する日本人4万3324人(満州より1万1920人)

平壌一中、800人、 賑町の遊郭跡に2400人船橋の鐘紡製鉄所飯場に1000人

下船橋朝鮮製鉄宿舎 970人、宗実中学860人、若松国民学校550人、大馳嶺鉄道官舎独身寮520人、遊郭跡六畳に24人、4畳半に20人 

平壌での死者3900人・龍山墓地に浅い土葬も多かった。

 

9月27日 満州、命令・午後6時までに移動を完了せよ

1946年5月半ば、旧鉄道関係者2500人

     6月   4000人+3600人(遊郭跡)を最後に帰国事業止まる。

記録16000人38度線ごえ  非合法法で

まだ、44000人、平壌とその付近に(内、12000人満州からの人)

 

1946年6月5日、  6月15日 ソ連軍から処罰令

日本政府は、何もしてくれない、 個人責任で!

 

1946年8・1金日成 「北朝鮮技術者徴用令」

臨時人民委員会から「日本人技術者確保令」交付

日本窒素肥料興南工場→興南地区人民工場1950人

兼二浦日本製鉄所→黄海製鉄所25人~31人

日本鉱業鎮南浦製鉄所→東洋製鉄所133人 技術者15人

水豊発電所 36人

日本高周波城津工場  技術者200人 労働者800人  → 86人

小野田セメント平壌工場→朝鮮セメント平壌工場19人

北鮮製紙吉州工場 21名

計、残留日本人技術者約900人 1946・8・28

 

1946年10月12日(土)晴れ

朝鮮6つの道(県)工業技術総連盟日本人部 平壌旧料亭「玉屋」事務所

93事業所 残留日本人技術者 868名 その家族約2000人

給料本部長・次長6000円 金日成4000円 課長1500円 教員佐藤2000円

開城人民蜂起詳報

南朝鮮労働党を弾圧するアメリカ軍政に対しておきた「10月人民抗争」全鉄道4万人ゼネスト→300万人に

殺害された者約300人、行方不明3600人、検挙者15000人

「満州」  ソ連→満州人から迫害→蒋介石と毛沢東軍の戦いに巻き込まれる。八路軍と共に行動するようになった。

 

1946年12月26日 日本人学校開校「平壌日本人人民学校」看板

朝鮮当局は、机・椅子・黒板・オルガン・文房具類十分そろえてくれたが、授業の方針とか内容には、全くタッチしてこなかった。平壌・興南・カン興・清津4箇所に作る。

平壌では、低学年30人、高学年30人、寄宿舎、若草寮20人、企業負担金月1500円、個人おやつ代300円、子どもは日本語、朝鮮語、ロシア語を喋り親の通訳をした。

1947年2月学校運営も軌道に乗る、   三・一記念日を祝った。

「日本部」に支出したお金は、産業局から230万円。財政局から師弟教育費として200万円・金日成の給料が4000円、当時「北朝鮮工業技術連盟」の年間予算が30万円だった。数人の職員、・・・

1947年6月2日 中学校開校

          

 


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