みどりの一期一会

当事者の経験と情報を伝えあい、あらたなコミュニケーションツールとしての可能性を模索したい。

<縁のカタチ>墓と家族(上)墓と家族(下)/特大の青首大根でおでんと切り干し大根づくり

2018-12-14 21:11:48 | ほん/新聞/ニュース
今年は大根の当たり年。
寺町畑の超特大の青首大根が届いたので、
おでんを作ることにしました。

まずは大根を3センチほどの厚さに切って、
圧力なべで下茹でします。

昆布とシイタケを戻して、
大根、こんにゃく、にんじんをとろ火で30分ほど、

ギンナンがんもとヤリイカとかまぼこを追加。

薄味で出汁の効いたおでんのできあがり。


もう一本の大根は、切り干しにしましょう。

部屋のなかに干しておくと、朝までにかなり乾いています。
仕上げは明日、外で日に当てて寒風にさらします。

 <縁のカタチ> 墓と家族(上)
2018年12月12日 中日新聞

 両親らが眠る墓は、いつも荒れている。隣の墓は手入れされているのに、この墓の区画だけ、雑草が茂り、墓石には水あかや虫の死骸のような汚れがびっしり。東京都品川区の会社員男性(60)は、年に数回墓参りに訪れ、そのたびに申し訳ない気持ちになりながら手を合わせる。
 男性の故郷は長野県の東信地方。墓は、浅間山の裾野にある。三つ上の兄(63)は千葉県に住み、定年後も忙しく働いており、最近は墓参りに来ていない。
 男性がこの土地を巣立ったのは四十年余り前。地元の習わしでは一族は皆、同じ墓に入る。男性も妻も、死んだらここに戻ってこの墓で眠る。しかし、男性はその慣習には従わない。
 三年前、都内の納骨堂に申し込んだ。手続きを終えて感じたのは、心苦しさよりも、重荷から逃れたような解放感だった。
 十一月中旬、男性は妻(59)と義父(85)、二人の娘、孫(十一カ月)の六人で納骨堂を訪れた。JR田町駅から徒歩約十分の「迦楼塔(かろうとう)東京」。一月に八十三歳で亡くなった妻の母は、既にここで眠っている。
 地上四階、地下一階建てで白壁に市松模様が入ったビル。センサーに利用者専用のカードをかざすと、一フロアに十ある参拝室の一室が指定される。参拝室は約四平方メートル。床は大理石張りで、高さ約一メートルの墓石がある。カードに記録された情報が読み取られ、約千個の骨つぼの中から義母の骨つぼが墓石の中に運び込まれると手を合わせる。生花が常に備えられていて、焼香台もある。
 この日は義母の月命日。大阪で一人暮らしをしている義父は、約半年ぶりの上京を「孫やひ孫にも会え、みんなで一緒に妻をしのぶことができて、よかった」と喜んだ。
 男性がこの納骨堂を知ったのは、三年前に見た新聞の折り込みチラシ。駅から近く、実家と同じ宗派の寺が運営していることもあり、身近に感じた。
 以前から、自分たちの墓だけでなく、義父母の墓も気がかりだった。徳島出身の義父は三男。長年、大阪で暮らしているが、墓を購入する予定はなさそうだった。切り出しにくかったが、酒を飲みながら聞いてみた。「墓を買うから、将来は一緒に入りませんか」。義父は「ありがたい」と喜び、当時元気だった義母は「お願いします」と頭を下げた。一つの申し込みで三親等まで入れ、兵庫県に住む妻の妹(56)も、入りたいという。
 購入費は永代使用料百二十万円と、五十年分の年会費の前払いとして六十万円の計百八十万円。男性夫婦、義父母、妹夫婦で三等分して支払った。五十年後、親族の誰かが年会費を払えば継続利用でき、払う人がいなくなれば、遺骨は合葬墓に移るが、引き続き弔ってもらえる。「自分の墓が将来朽ち果て、存在が忘れ去られる心配はなくなった。肩の荷が下りた」と男性は言う。ただ、兄にはまだ、納骨堂のことは話せていない。
     ◇  ◇ 
 人の暮らし、生き方が昔とは大きく変わり、家族や親族、地域のあり方もさまざまになりました。「縁のカタチ」は随時掲載で、変わりつつある「人と人の縁」をリポートします。今回は長年、故郷を離れた男性を通じて、墓と家族について考えます。
 (細川暁子) 


 <縁のカタチ> 墓と家族(下)
2018年12月13日 中日新聞

 ふと思い出すのは、お盆の風景。長野県東信地方の実家で、先祖の霊を迎えるために、両親や兄と盆提灯(ぼんぢょうちん)や精霊馬(しょうりょううま)の飾りを仏壇に供えた。迎え盆の八月十三日と、送り盆の十六日には、一家そろって墓参り。東京都品川区の会社員男性(60)は、五十年以上昔のことを思い出す。
 「先祖やその墓を大切にするのは当たり前のこと。自分もいずれは同じ墓に入る」。ずっと、そう思っていた。それは、父からの影響でもある。
 男性の父は子どものころ、一家で「満蒙(まんもう)開拓団」として旧満州(中国東北部)に渡り、畑を耕した。その後、末の妹が生まれたが、まもなく病死してしまった。終戦後に帰国した一家は小さな商店を営み始め、長男だった父は、結婚して店を継いだ。
 祖父が亡くなると、父や叔父らが墓を建てた。墓には旧満州で亡くなった末の妹の名前も刻まれた。祖父が亡くなったとき、男性は五歳だったが、毎日仏壇に手を合わせる祖母や父の姿をよく覚えている。三つ年上の兄(63)らと交代で、男性も墓参りに行った。やがて祖母も亡くなり、同じ墓へ。父を中心に墓や仏壇を大事に守る生活は続いた。「戦中や戦後の混乱を生き抜いた父にとって、墓は特別なものだった。祖父母や妹が生きた証しそのものだったのでしょう」
 そんな父の思いを感じて男性と兄は育ったが、二人とも関東地方の大学に進学し、故郷は次第に遠くなっていった。卒業後も地元には戻らず、そのまま首都圏で就職し、男性は東京に家を建て、兄は千葉県に住んでいる。
 両親は一九九〇年代に相次いで他界。遺骨は父らが建てた墓に納めた。男性は、夏休みなどに妻(59)と娘たちを連れて墓参りに行ったが、空き家となった実家を売ったこともあり、一家そろって墓参りすることは次第に減っていった。今は、いつも一人で訪れている。
 兄は年二万円の管理費を納めているものの、ここ数年、墓参りには行っていない。地元には親しい親戚もいない。墓の手入れは、男性が訪れる年数回だけだ。訪れるたびに「周りの墓はきれいなのに、うちのは草だらけ。両親や祖父母に申し訳ない」と感じる。
 自分が長男だったら、墓じまいして今の住まいの近くに遺骨を移すことを考える。以前、兄に「墓をどうにかしたら」と話したこともある。だが、手を付ける気配はない。
 地元には、死んだら家族も一緒に家の墓に入る習わしがある。しかし、男性はその墓には入らない。三年前、都内の納骨堂に永代使用料を払い、既に妻の母の遺骨を納めている。
 将来は、妻や妻の父、妹夫婦も同じ納骨堂に入る。そのことは兄には話していない。「兄が知ったら嫌な気がすると思う」からだ。「生きているうちは、ずっと自分が故郷の墓参りに行く。でも将来は、両親や祖父母は無縁仏になってしまうかもしれない」。父を思うと、心苦しさが増す。
 妻は死んだら、夫や夫の両親と同じ墓に入る。それは、日本の各地に古くからある慣習だ。だが、男性はこう思う。「女性が男性に従属するべきだという考えは古い。死後もとなるとなおさらだ。自分の妻や娘たちには、そんな考え方も生き方もしてほしくない」。一年ほど前、初孫が生まれた。次女(29)夫婦の長男だが、その子にも、家に縛られず生きてほしいと願っている。
 (細川暁子)


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12月13日(木)のつぶやき

2018-12-14 02:02:31 | 花/美しいもの
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