みどりの一期一会

当事者の経験と情報を伝えあい、あらたなコミュニケーションツールとしての可能性を模索したい。

東日本大震災10年/廃炉 本音の対話が必要だ/被災前を知り、次に備えを/さわやかな甘さの柑橘「はるか」

2021-03-16 21:38:12 | ほん/新聞/ニュース
去年も注文したミカン職人・武田屋さんから、
晩かん類の「はるか」が届きました。
「はるか」は「日向夏(ひゅうがなつ・ニューサマーオレンジ)」の
実生から選抜育成された柑橘です。

スマイルカットがおすすめとあったのでやってみました。

レモンみたいな黄色ですが、日向夏のこどもなので、
酸味はなくてさわやかな甘さです。
皮も種も取ってさらに食べやすくしました。

夕ご飯はカナダ産三元豚ひれ肉。
パートナーの薬の副作用の貧血対策でコストコで買いました。

薄切りにしてから、薄く塩コショウして小麦粉を振って、
卵液にくぐらせて、ピカタを作りました。

久しぶりのお肉、やわらかくておいしいです。

きのこと玉ねぎの野菜炒め

ひれ肉は、大容量のパックなので、半分おすそ分けして、
残りは食べやすく切って、冷凍しました。

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後半は、
宮城県仙台市に本社がある東北ブロックの地方紙、
河北新報の社説、「東日本大震災10年」を紹介します。

 社説:東日本大震災10年/廃炉 本音の対話が必要だ 
2021年03月10日 河北新報

 東日本大震災の津波で事故を起こした東京電力福島第1原発の廃炉作業が遅れている。
 国と東電は事故から30~40年後の2041~51年に完了させるとの目標を変えていないが、現実的ではない。このままでは地元の信頼を失う。震災10年を機に現状と展望を誠実に説明するべきだ。
 東電は昨年12月、事故で溶け落ちた核燃料(デブリ)の取り出しについて、目標にしていた21年内の開始を断念する方針を明らかにした。
 デブリの取り出しに使う装置の試験を英国で予定していたが、新型コロナウイルス感染拡大で実施できないためだ。最短でも1年程度遅れるという。
 国と東電は廃炉完了までの過程を3段階に分けた中長期ロードマップ(工程表)を公表している。デブリ取り出し開始は第2期(13年11月~21年12月)としていた。
 断念に伴い、工程表も改訂した。改訂は5度目。そのたびに工程は後ろにずれこんでいるが、3段階の大枠を変更したのは初めてだ。
 デブリは放射線量が極めて高く、遠隔操作で取り出す。廃炉作業の最難関とされる。開始の延期は1年とはいえ、全体工程の大幅遅れにつながりかねない。それでも東電は完了時期を堅持したままだ。
 廃炉作業は福島第1以外でも行われている。震災前に始めた日本原電東海発電所(茨城県東海村)と中部電力浜岡原発1、2号機(静岡県御前崎市)は原子炉周辺設備の解体作業に入っている。
 完了までの期間は東海が30年、浜岡は28年だ。役割を終えた原発でさえ、これだけ時間がかかる。ましてや世界で最も深刻なレベルの事故を起こした福島第1が30~40年と言われても、信じろという方が無理だ。
 もう一つの大きな問題は、東電が廃炉完了がどのような状態を指すのか「完成図」を示していないことだ。
 地元が望むのは原子炉などを完全に撤去し、放射性廃棄物も処分し更地に戻すことだろう。だが、1986年に事故を起こした旧ソ連のチェルノブイリ原発のように、建屋ごと「鉄棺」で覆ったまま解体に着手できない例もある。東電は「地元と相談し決めたい」と繰り返すのみだ。
 日本原子力学会は昨年秋、廃炉が進んだとしても敷地が再利用可能になるまで最短でも100年以上かかるとする報告書をまとめている。
 福島の復興は廃炉の完了を前提に進んでいる。その行方次第で復興の工程そのものが変わってくる。古里への帰還を考えている住民の判断にも関わってくる。
 国や東電はもちろん、福島県も計画通りに廃炉が完了するとは考えていないだろう。楽観的な目標を掲げて建前論を交わす現状は正常な姿ではない。もう本音の対話を始めなければならない時期だ。


 社説:東日本大震災10年/被災前を知り、次に備えを
2021年03月16日 河北新報

 東日本大震災発生10年の今年は、3月11日にかけて関連のニュースが多かった。報道に触れ、当時の記憶をたどった人もたくさんいたのではないか。ぜひ震災前にも思いを巡らせ、備えが必要な理由を改めて考えてほしい。
 「3月11日が注目されるが、私の一番の後悔は3月9日」。石巻市を拠点に語り部をしている東北福祉大4年の永沼悠斗さん(26)は、このように教訓を伝える。
 永沼さんは津波で児童74人、教職員10人が犠牲になった旧大川小の卒業生。震災では旧大川小で弟を、自宅で祖母、曽祖母を亡くした。
 震災前々日の9日、前震があった。海岸にいた永沼さんは、津波が怖くて走って帰宅したが、家で津波の話をしなかった。「大切な人の命を守るため、2日間でできることがあったはずだ」との思いが活動の原点になっている。
 石巻市石巻南浜津波復興祈念公園の慰霊碑に11日、多くの遺族が訪れた。プレートに記された3695人の中から、探していた名前を見つけると指でなぞり、犠牲者に思いをはせた。
 石巻市に限らず、被災各地に犠牲者の名前を刻んだ慰霊碑がある。数字では被害や犠牲の規模しか伝わらない。だが、この世に生を受けた象徴でもある名前を見ると、一人一人に家族や暮らしがあり、それらが震災で断たれたことを想像できる。
 震災前の被災者の生活は、他の人たちとあまり変わらない、あしたへと続くと思っていた日常だったはずだ。震災後、被災者が痛感しているであろう何げない暮らしのありがたみを考えることは、被災者の教訓をわが身、わが家族に重ねることにつながる。
 震災後、初めて被災地を訪れた人にとって、広大な更地や整備された公園と道路、再建された町並みなどが被災地の原風景になる。それは発生当時まだ幼かった世代、震災後に生まれた世代にとっても同じことが言える。
 震災直後の様子、復興の歩みと同時に、震災前の被災地を伝えることは、災害が奪ったものを理解する上で、震災を知らない世代が増えるほど大きな意味を持ってくる。
 国内では震災後も、2014年御嶽山噴火、15年関東・東北豪雨、16年熊本地震、18年北海道地震、19年台風19号豪雨と、大災害が相次ぐ。普段は恩恵を、時に災禍をもたらす自然と上手に付き合うことは、もはや定めだ。
 震災の前々日に戻りたいと願っても、それはかなわない。しかし、将来の災害の発生日を起点に考えると、その前々日は必ずやってくる。
 もしかしたら今日が新たな災害の「3月9日」かもしれない。2日あれば、いろんな備えができる。被災を境に日々の営みが途切れないよう、揺れ対策、避難路の確認など事前にできることを行い、犠牲と被害を減らしたい。 


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