熟年新米弁理士のひとり言

平成18年に59歳で弁理士試験に合格した企業内弁理士です。弁理士試験、企業での知的財産業務について、気軽にお話します。

岡崎嘉平太と周恩来

2007-03-20 21:26:22 | Weblog
日中友好の立役者「岡崎嘉平太と周恩来」についてのテレビ番組を観ました。
日中友好の立役者は、田中角栄と周恩来だと思っていましたが、この番組を観て、完全に誤解していたことが分かりました。
周恩来は、私が最も尊敬する中国人で、超有名人ですので、特に紹介することはありませんね。岡崎嘉平太は、隣国中国との国交断絶状態を憂い、貿易という場を利用した交流を発案し、国交樹立へとつなげた“陰の立役者”ですが、なんと一民間人です。
戦後の日本は台湾政府と国交を持ち、共産主義・中国に対してアレルギーがありました。その中で岡崎は、アカ、反体制財界人という批判を浴びながらも「相手を知ること」「相手の立場に立つこと」を信条に日中のパイプ作りに奔走しました。特に周恩来とは、18回におよぶ会談を通じてアジアの安定と共存を語り合い、信頼と友情を深めていきます。周恩来は、岡崎の息子さんに「私たちは、命がけで行動する人を信じる。私は、中国で自分の命が危険にさらされるということはない。しかし、君のお父さんは、日本で命の危険にさらされている。それでも日中友好のために行動している。こういう人を私たちは信頼する」と言ったそうです。周恩来は、誰が信頼できる人かを正確に判断していたのですね。
日中友好の障害は、戦争賠償請求にあったといわれています。一説には600億ドルとも言われている巨額な賠償を請求されるのではないかというのが、日本が日中友好に踏み切れない理由であったそうです。
あるとき、周恩来が岡崎にこう言ったそうです。「中国に対する侵略戦争を発動させたのは、日本の一部の軍国主義者達である。日本の一般の国民もまたわれわれ中国人民と同様に戦争の被害者である。ゆえに戦後賠償の苦しみを罪のない日本国民にかぶせるわけにはいかない」これを聞いた岡崎は、すぐに外務省に連絡しました。そのあと田中内閣が成立し、日中友好条約が締結されました。
日中友好条約締結の日本側招待者の中に岡崎嘉平太が含まれていないことを知った周恩来は、すぐに岡崎嘉平太を呼ぶように指示しました。この知らせを聞いた岡崎嘉平太は、「恐縮です」と感激したそうです。
日中友好条約締結の後、周恩来は、「わが国では水を飲む時には井戸を掘った人を忘れない」と、岡崎嘉平太に謝意を伝えました。国交正常化の後は日中青年研修協会を設立、留学や研修を通した“人の石垣”を築きあげることに情熱を傾けました。訪中100回、「信は縦糸、愛は横糸」と唱え続けた岡崎は、現在も中国で最も尊敬されている日本人の一人だそうです。
日本ではあまり有名ではないが、外国で有名な人はかなりいますね。岡崎嘉平太もそうですが、この他に「6000人の命のビザ」で有名な、第二次世界大戦時のリトアニアの外交官「杉原千畝」などがいます。これらの人の共通点は、自分の功績を誇示しない人、所謂あまり偉くない人です。こういう人が、本当に立派な功績を挙げているのですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする