「平成の鬼平」「市民派弁護士」、数々の異名で知られた元日本弁護士連合会会長の中坊公平さん83際がお亡くなりになりました。
中坊公平さんは、1955年に発生した「森永ヒ素ミルク中毒事件」で被害者側の弁護団長を担い、森永乳業から恒久救済措置を引き出しました。
また、高齢者らが多額の資産を失った「豊田商事事件」でも同社の破産管財人として被害者救済に尽力し、計約120億円の配当にこぎつけました。
90年4月から2年間務めた日弁連会長時代には「市民に身近な司法」を掲げ、のちの裁判員制度につながる「国民の司法参加」などを柱とした司法改革宣言の採択に力を注ぎました。
中坊さんは、子供時代に受けた教育のためか、立身出世、勲章授与等が人生の目的であると考えていたようですが、この考えを決定的に変えたのが、「森永ヒ素ミルク中毒事件」です。
この事件で、被害者の苦しみに触れ、被害者の側に立って活動する弁護士を目指すという決意を新たにしたそうです。
立身出世や勲章を目指す生き方は間違っていると考えて、人生の方向性を変えました。
この瞬間から勲章とは無縁の人になりましたが、被害者に感謝されて一般市民の尊敬を集めることができたのですから、人生の成功者ですね。
勲章欲しさに見苦しい生き方をしたり、国会議事堂内に自分の銅像を立てることに執着している国会議員とは人間の質が大違いですね。
庶民の味方が、また一人世を去りました。
寂しくなりますね。
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中坊公平さんは、1955年に発生した「森永ヒ素ミルク中毒事件」で被害者側の弁護団長を担い、森永乳業から恒久救済措置を引き出しました。
また、高齢者らが多額の資産を失った「豊田商事事件」でも同社の破産管財人として被害者救済に尽力し、計約120億円の配当にこぎつけました。
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中坊さんは、子供時代に受けた教育のためか、立身出世、勲章授与等が人生の目的であると考えていたようですが、この考えを決定的に変えたのが、「森永ヒ素ミルク中毒事件」です。
この事件で、被害者の苦しみに触れ、被害者の側に立って活動する弁護士を目指すという決意を新たにしたそうです。
立身出世や勲章を目指す生き方は間違っていると考えて、人生の方向性を変えました。
この瞬間から勲章とは無縁の人になりましたが、被害者に感謝されて一般市民の尊敬を集めることができたのですから、人生の成功者ですね。
勲章欲しさに見苦しい生き方をしたり、国会議事堂内に自分の銅像を立てることに執着している国会議員とは人間の質が大違いですね。
庶民の味方が、また一人世を去りました。
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