天気が良かったので、鎌倉へ文学散歩に出かけました。
藤沢駅近くで早めの昼食を取り、江ノ電に乗って鎌倉へ。
鎌倉駅に到着。
今日の文学散歩は、次のような名所旧跡を巡ることにしました。
鎌倉駅 ⇒ 六地蔵 ⇒ 寸松堂 ⇒ 高浜虚子庵跡 ⇒ 吉屋信子記念館
⇒ 鎌倉文学館 ⇒ 甘縄神明神社 ⇒ 高徳院(大仏) ⇒ 光則寺 ⇒ 長谷寺
⇒ 長谷駅
早速出発。
先ずは「六地蔵」。
今小路の裁許橋を渡って由比ヶ浜方面に行くと六体の地蔵があります。
ここは、昔の刑場跡地で、多くの者がここで処刑されました。
明治初めころまでは、「飢渇畠」(けかちばたけ)と呼ばれる荒地だったが、罪人供養のための六体の地蔵が建てられました。
六地蔵は、亡者を六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)から救うために祀られている。
六地蔵の傍らには、松尾芭蕉の句碑も建てられている。有名な「夏草や兵どもが夢のあと」が刻まれています。
その影響でこの辺を「芭蕉の辻」ということもあるそうです。
句碑は、江戸時代に雪ノ下で旅館を経営していたという俳人松尾百遊(本名:滝右衛門)が芭蕉を偲んで建てたものといわれています。
次は「寸松堂」です。
この建物は、昭和11年、鎌倉彫の彫師佐藤宗岳氏の店舗併用住宅として、市内の大工西井喜一、正二親子によって建てられました。
1階店舗部分のガラス 戸、ショーウインドーなどに近代洋風建築技術が見られますが、全体としては寺院建築と城郭建築が合体したような建物となっています。
寸松堂は建築当初から 笹目町、長谷界隈のランドマークとして重要な役割を果たしています。
この建物は、登録有形文化財です。
「寸松堂」の近くに、「高浜虚子庵跡」がありますが、初めての人は見つけるのに苦労します。
明治43年から鎌倉 に移住した俳人、高浜虚子 の住居跡です。
今はすでに建物はありませんが、その場所に石碑が立っていて、虚子が大正 の初めごろの元旦の朝にこの自宅で詠んだ俳句が直筆のままで刻まれています。
「吉屋信子記念館」に行きましたが、あいにく閉館日でした。
開館日が少ないので確かめてから行ったほうがいいですね。
女流歴史作家の草分けである吉屋信子が、晩年の10年余を鎌倉で過ごした家を記念館としたものです。
吉屋信子は明治29年新潟に生まれ、『徳川の夫人たち』、『地の果てまで』などの作品で知られています。
そして、本日のハイライト「鎌倉文学館」へ向かいます。
鎌倉は明治以降多くの文学者が移住・滞在し創作活動を行った場所で、ゆかりのある文学者は300人を超えています。
その歩みを紹介するのが『鎌倉文学館』です。
青い屋根が目印の洋館の中には、“鎌倉文士”と呼ばれる文学者たちの名著の原稿や愛用品が展示さていますす。
また、庭にはおよそ190種、230株のバラの花が植えられ、見ごろは春と秋。
この時期には美しいバラを見に多くの人々が集い、春には「バラまつり」が開催されます。
この日もバラ祭りが開催されていました。
木陰の道を通って文学館へ向かいます。
この日は、快晴で暑かったのですが、この道は木陰で涼しく、空気が違う感じがしましたね。
文学展示を見学してバラ祭りが開催されている庭へ。
鎌倉文学に触れて、バラを鑑賞し、日常と異なる空気を満喫しました。
文学館を後にして、「甘縄神明神社」へ。
甘縄神明神社は、710年(和銅3年)、僧行基の草創によって、由比の長者と呼ばれた染屋時忠が神明宮と神輿山円徳寺を建立したのがその始まりと伝えられ、鎌倉最古の神社といわれています。
源頼義が祈願して子の八幡太郎義家を授かったと伝えられる源氏と縁の深い神社です。
頼義や義家は、社殿を修復したと伝えられ、源頼朝も社殿を修理し、荒垣や鳥居を建てたと伝われています。
源実朝、北条政子も参詣しました。
宝物に源義家坐像があり、八代執権北条時宗の「産湯ノ井」が残されています。
「産湯ノ井」です。
「甘縄神明神社」の近くに、「加賀屋邸」がありました。
鎌倉は名所旧跡の玉手箱です。
次は、高徳院(大仏)を見学します。
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藤沢駅近くで早めの昼食を取り、江ノ電に乗って鎌倉へ。
鎌倉駅に到着。
今日の文学散歩は、次のような名所旧跡を巡ることにしました。
鎌倉駅 ⇒ 六地蔵 ⇒ 寸松堂 ⇒ 高浜虚子庵跡 ⇒ 吉屋信子記念館
⇒ 鎌倉文学館 ⇒ 甘縄神明神社 ⇒ 高徳院(大仏) ⇒ 光則寺 ⇒ 長谷寺
⇒ 長谷駅
早速出発。
先ずは「六地蔵」。
今小路の裁許橋を渡って由比ヶ浜方面に行くと六体の地蔵があります。
ここは、昔の刑場跡地で、多くの者がここで処刑されました。
明治初めころまでは、「飢渇畠」(けかちばたけ)と呼ばれる荒地だったが、罪人供養のための六体の地蔵が建てられました。
六地蔵は、亡者を六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)から救うために祀られている。
六地蔵の傍らには、松尾芭蕉の句碑も建てられている。有名な「夏草や兵どもが夢のあと」が刻まれています。
その影響でこの辺を「芭蕉の辻」ということもあるそうです。
句碑は、江戸時代に雪ノ下で旅館を経営していたという俳人松尾百遊(本名:滝右衛門)が芭蕉を偲んで建てたものといわれています。
次は「寸松堂」です。
この建物は、昭和11年、鎌倉彫の彫師佐藤宗岳氏の店舗併用住宅として、市内の大工西井喜一、正二親子によって建てられました。
1階店舗部分のガラス 戸、ショーウインドーなどに近代洋風建築技術が見られますが、全体としては寺院建築と城郭建築が合体したような建物となっています。
寸松堂は建築当初から 笹目町、長谷界隈のランドマークとして重要な役割を果たしています。
この建物は、登録有形文化財です。
「寸松堂」の近くに、「高浜虚子庵跡」がありますが、初めての人は見つけるのに苦労します。
明治43年から鎌倉 に移住した俳人、高浜虚子 の住居跡です。
今はすでに建物はありませんが、その場所に石碑が立っていて、虚子が大正 の初めごろの元旦の朝にこの自宅で詠んだ俳句が直筆のままで刻まれています。
「吉屋信子記念館」に行きましたが、あいにく閉館日でした。
開館日が少ないので確かめてから行ったほうがいいですね。
女流歴史作家の草分けである吉屋信子が、晩年の10年余を鎌倉で過ごした家を記念館としたものです。
吉屋信子は明治29年新潟に生まれ、『徳川の夫人たち』、『地の果てまで』などの作品で知られています。
そして、本日のハイライト「鎌倉文学館」へ向かいます。
鎌倉は明治以降多くの文学者が移住・滞在し創作活動を行った場所で、ゆかりのある文学者は300人を超えています。
その歩みを紹介するのが『鎌倉文学館』です。
青い屋根が目印の洋館の中には、“鎌倉文士”と呼ばれる文学者たちの名著の原稿や愛用品が展示さていますす。
また、庭にはおよそ190種、230株のバラの花が植えられ、見ごろは春と秋。
この時期には美しいバラを見に多くの人々が集い、春には「バラまつり」が開催されます。
この日もバラ祭りが開催されていました。
木陰の道を通って文学館へ向かいます。
この日は、快晴で暑かったのですが、この道は木陰で涼しく、空気が違う感じがしましたね。
文学展示を見学してバラ祭りが開催されている庭へ。
鎌倉文学に触れて、バラを鑑賞し、日常と異なる空気を満喫しました。
文学館を後にして、「甘縄神明神社」へ。
甘縄神明神社は、710年(和銅3年)、僧行基の草創によって、由比の長者と呼ばれた染屋時忠が神明宮と神輿山円徳寺を建立したのがその始まりと伝えられ、鎌倉最古の神社といわれています。
源頼義が祈願して子の八幡太郎義家を授かったと伝えられる源氏と縁の深い神社です。
頼義や義家は、社殿を修復したと伝えられ、源頼朝も社殿を修理し、荒垣や鳥居を建てたと伝われています。
源実朝、北条政子も参詣しました。
宝物に源義家坐像があり、八代執権北条時宗の「産湯ノ井」が残されています。
「産湯ノ井」です。
「甘縄神明神社」の近くに、「加賀屋邸」がありました。
鎌倉は名所旧跡の玉手箱です。
次は、高徳院(大仏)を見学します。
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