
春用の靴を買ってきた。道に雪がなくなり、散歩を楽しめる季節が間もなく来るから。日帰り温泉で冬靴を間違われて、戻ってこないという出来事もあった。靴を買うのはうれしいものだ。昭和40年代、働きざかりのころ、上司から言われたものだ。「営業マンは靴のおしゃれに金を使いなさい。」たしかに言われるとおりであったが、薄給の身では、それを実行するのは難しかった。
だから、高級でおしゃれな靴を履いている人を見ると、どこかで尊敬の念を抱いてしまう。この年になって、高級な靴など買うべくもないが、靴屋でどれがいいか選ぶのは、今でも楽しい。山登りの靴は、厳冬期も履けるということで、革靴を大枚をはたいて買った。これは簡単に買い換えることもできず、靴底を張り替えて、長年大事に履き続けている。だが、年を重ねると、革靴は重いので、簡易の登山靴と、登る条件によって使い分けている。
歩くことが苦にならないのは、子供のころからの習性である。家から3キロほど離れた小学校へ通うのも、無論歩きである。時々、寝坊して遅刻する駄目な小学生であった。小学校の近くに住んでいた同級生が、始業の鐘と同時に教室に駆け込んでくるのを、うらやましく眺めていた。冬の通学は想像以上の厳しかった。吹雪の日に、耳あてがずれていて凍傷になったこともある。教室に入ると、先生から、すぐに暖めるといけない、と注意された。ストーブから離れて、手でじっと氷った耳を温めた。
遠足は楽しい行事のひとつであった。学校から5キロ以上もある神居古譚まで、花見をかねて学校全体ででかけた。珍しい景色を堪能したが、帰宅してからの疲れは大変なものであった。夜ご飯を食べるとすぐに、次の日の朝まで寝ても回復せず、昼頃まで寝た。そんな経験が、歩く習慣をいまに生かしている。ありがたいことだ。
日和下駄を履き、こうもり傘を携えて、東京中を散歩したのは永井荷風である。『日和下駄』で荷風は、「市中の散歩は子供の時から好きであった」と告白している。
「夏の炎天には私も学校の帰途井戸の水で車力や馬方と共に手拭を絞って汗を拭き、土手の上に登って大榎の木陰に休んだ。土手には其の時分から「昇ル可カラズ」の立札が付物になっていたが、構わず登れば堀を隔てて遠く町が見える」
こんな風に木登りをしながら、通学していた荷風が微笑ましく感じる。それは、私もまた子供のころ、高い木に登るのを好んでいたからだ。