常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

敵に塩を送る

2013年03月14日 | 日記


豆苗とミツバの根から出た新芽がぐんぐんと伸びる。その薄緑の新しい芽は見るからにおいしそいだ。春の気配が日一日と強くなる。昨日、3月13日は、上杉謙信の命日である。天正6年春、北条征伐への出陣の準備を進めていたが、3月9日、厠へ行って昏倒した。今日でいう脳出血である。そのまま、床についていたが、13日ついに帰らぬ人となった。

上杉謙信は5度にわたり川中島で、好敵手武田信玄と対峙したが、決着はつかなかった。謙信が川中島へ赴き、信玄と決戦を繰り返したのは、領国の拡張に執念を燃やす信玄を懲らしめるためであった。謙信にはそのような野心はなかった。領国の安泰のため、出陣は農繁期を避けた。

相模の北条氏や駿河の今川氏は信玄の領国拡張を恐れ、塩を送るのを止めた。周囲に海を持たない武田信玄は、塩がなくて困った。群雄割拠の戦国時代であれば、好敵手の困難につけいるのが例であろう。だが、信玄はそうではなかった。信玄の窮地を見て、日本海産の塩を送ることにしたのである。

3千俵の塩が糸魚川から大町、松本を経由してはるばると甲府に到着した。永禄12年冬のことであった。塩はまず市神神社に供えられたのち、住民に売り出された。この壮観を見て、謙信の両国領国のなかにおいても

贈りけん塩の色にも見ゆるかな越後の雪の清き心は

と敵への義挙がたたえられた。今日の世界戦略では、秩序を乱すものへの経済制裁などの兵糧攻めが行われているが、武将、上杉謙信はまったく違った価値観を持って、戦国時代を駆け抜けたのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする