きのう、午後2時ころ埼玉県越谷市を竜巻が襲った。この竜巻の映像は、一般の人が撮影したものがテレビやネットで数多く放映された。その威力の大きさに、あらためて驚嘆した。埼玉県と千葉県で建物の損壊は540棟、けが人は67名を数えた。竜巻はアメリカの専売特許かと思っていたが、温暖化の影響によるためか、日本でもしばしば被害が報道されるようになった。その原因は上空に寒気が入り、地表には湿った温かい空気が流れこみ、その気温差は40℃に達し、それで激しい上昇気流が生じたためとされている。
以前、このブログでアメリカの竜巻で牛が飛ばされた話を書いたが、アメリカの竜巻はよく5月に大きな竜巻が起きている。18965月のある午前中、アメリカのセントルイス市の上空には暗雲が立ちこめ、突然強風が吹き始めた。昼過ぎになって、風速はさらに強まり、時速120キロを記録した。そのため商店や事務所は扉を閉め、人々は帰宅を始めた。5時ころには、セントルイスはほとんど真っ暗になり、稲妻が空を走り、豪雨が降った。
そうしているうちに、雲の一部にぽっかりと穴があき、その穴から緑色の空が見えた。無気味な光景だ。だがこの穴が、竜巻の始まりであった。その穴の下にある南西部の郊外住宅を無惨に破壊され、さらに竜巻は移動して市街地南部を襲った。この地区にあった小学校では、子供たちを護ろうと、校舎に保護していたが、竜巻は学校を呑み込み建物と数名の子供たちも一緒に空に吹き上げられた。竜巻はセントルイス市を横断し、住宅や公共の建物が破壊された。死者は400人、数千の負傷者を数えた。被害額は当時の金額で1300万ドルと記録されている。
わが国では、鴨長明が『方丈記』で治承の旋風の様子の記載がある。治承4年といえば、西暦1210年のことである。
「中御門京極の辺りからひどい旋風が起って、6条あたりまで吹きすさんだことがあった。三四町のところを吹きまくる間にあった家は、大きいのも小さいのも、一つとしてこわれないものはなかった。そのままぺしゃんこにつぶれたものもあり、桁や柱ばかり残っていたものもある。門の屋根を吹きはらって、四五町も離れたところへちょこんと置いたり、また、垣根を吹きはらって、隣家とひとつにしてしまったものもあった。ましてや、家のなかの財宝などは、みなそっくり大空に舞いあがり、屋根の檜皮や葺板が吹き飛ぶさまは、まるで冬の木の葉が風に乱れ狂うようでああった。」
現代語に訳した記述だが、これは台風を記録したものではなく、まさに竜巻の様子を記したものである。こんな恐怖の記憶が、現代に再現している。