常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

最上徳内

2013年09月05日 | 


村山市の甑岳に登ると、頂上近くの見晴らしのよい場所に、「青雲の志碑」がある。若き日の最上徳内が、この場所に登っては、眼下に見える小さな楯岡の街並みを見ながら、青雲の志を自らの心に誓った場所であるという。このあまりに小さな町を出て、視野を大きく広げたいと考えたのではないかと想像する。

天保7年9月5日、最上徳内が82歳で没した。今日はその命日に当たる。徳内は楯岡村の百姓の子に生まれた。この貧村から、かのシーボルトにも認められた蝦夷探険家が出たことは奇跡に近い。28歳で江戸に登るまでの間、徳内の苦学は続いた。家業を手伝うかたわら、煙草の行商をして独学した。徳内がしばしば村の東に聳える甑岳に登ったのはこの時期であったろう。

徳内は長男であったが、学問を志して家業の相続権を弟に譲り、江戸に出て奉公する道を選ぶ。奉公のかたわら、経世家本田利明の私塾に学んだ。ここで、蝦夷地の開発や開国論、重商主義などの実学を学んだ。その後、本田利明に推薦され、幕府の北海探検隊に随行した。蝦夷の地にには合わせて9回に及んだ。当代随一の蝦夷通として、知られるようになり、千島、択捉島を巡見した。この功績により、幕府は御目見以上の格をもって武士に取り立てられた。

蝦夷にあっては、現地のアイヌ人と生活をともにし、その言語、風俗に精通し「蝦夷方言藻汐草」や「渡島筆記」を刊行して言語、風俗を紹介した。また、徳内の著述には、「蝦夷草紙」や「度量衡説統」など、実学の大切さを説くものとなっている。今、村山市楯岡の「最上徳内記念館」には、その生涯を顕彰する多くの資料が展示されている。

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