常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

結城哀草果

2014年03月15日 | 


山形市の西の山麓に本沢いう集落がある。結城哀草果は明治26年10月13日に、山形市下条町の黒沼作右衛門の3男に生まれた。本名は光三郎であった。光三郎は生まれてすぐ、本沢村の農家結城太作に貰われ、養子として育てられた。実父は幼いときに亡くなったが、養父は愛情深く育てたので、淋しさを知らないばかりでなく、養父を実の父のように慕った。太作は
光三郎が3歳になると、背負って湯殿山詣でしたというから、並々ならぬ愛情を注いでいた。

光三郎は長じて文学を志すようになる。鍬をなげうって外出したり、仲間が結城家を頻繁に訪れるようになる。この時代の農村では、本を読むようなことにさえ厳しい目が向けられた。農業には必要のないこととされた。文学青年は家人に隠れて本を読むような時代であった。そのような時代に、太作は光三郎の行動を叱らず無言で見守っていた。

米搗くがあまりのろしと吾が父は俵編みゐて怒るなりけり 哀草果

哀草果の書いた随筆に『村里生活記』がある。「私の家は母屋も倉も茅葺であるから至って涼しい。暑い日に茅屋根をたたく夕立の音に午睡からさめ、庭をながめていると、いまだ雨雫の光っている庭の樹立にクモがいそがしく網をはりはじめる」。哀草果の日常が、リアルに書かれている。

哀草果が斉藤茂吉に手紙を書き、和歌について教えを乞うたのは、大正3年の夏のことである。茂吉が第一歌集『赤光』を刊行した翌年のことである。茂吉の郷里からほど近い本沢の青年からの手紙は茂吉をうれしがらせたに違いない。以来、哀草果は斉藤茂吉の一番弟子の座を占めることになる。

あなさびし雪よりいでて咲く花の熊谷草は真白なる花 哀草果

哀草果が処女歌集『山麓』を刊行したのは、昭和4年6月のことである。その年の9月に山形市の教育会館の4階で出版記念の会が開かれた。参集者は60名、山形新聞社の肝いりで盛会となった。山形という地方にあって出版記念会なるものが開かれたのは、哀草果の歌集がはじめてのものであったかも知れない。



コメント (3)
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