国定忠治
2014年12月21日 | 人
博徒で名高い国定忠治(本名長岡忠次郎)が、磔の刑で死んだのは、嘉永3年(1850)12月21日のことであった。刑場は、忠治が犯した罪のなかでも最も重い関所破りの現地、大戸関の前に設けられた。すでに死を覚悟していた忠治は、処刑を怖れる風もなく、役人に言った。
「大戸には、うまい酒があると評判でございます。どうか冥土の土産に一杯飲ませてはいただけますまいか。」忠治には、近在の百姓などから多くの助命嘆願が届いていたこともあって、この願いは叶った。酒をうまそうに飲むと、その場で横になり、たちまち雷のような高いびきをかいた。いよいよ、刑を執行するときがきたので、役人は忠治を起こし、「どうだ酒をもういっぱいやらないか」と聞いた。忠治は、「よしときましょう。死ぬのが怖くて酒を飲んだなどと思われてはいやですから」と言って、おとなしく柱に括り付けられ、役人の槍で14度突かれて絶命した。
国定忠治が博徒であくどい金を稼ぎながら、その行動が映画や芝居の題材になったのは、窮民を救ったという一面があったからである。天保の大飢饉では、窮民を救うために数百両の金を投じたし、その翌年には飢饉に備えて国定村の上流にある沼浚えをした。賭場に村の金持ちの息子なだ来たときは、本人を諭していれなかった。また、村の秩序を守ることにも力を貸し、盗人が村に近づけなかった。忠治の子分は七、八百ともいわれ、一度声をかけると、400人もの者が駆けつけた。映画や芝居では、その美談が強調されるが、賭博稼業は斬った撲ったの殺伐を極めた。そんな稼業で、子分たちをまとめ上げるには、気風のよさを必要とした。
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