与謝蕪村は俳諧で名をなしていたが、宗匠の道に進まず、清貧に甘んじた。一汁一菜、シンプルな食卓であった。歳の瀬になると門口に、狂歌を下げて掛取りを驚かした。
首くくる縄切れもなし年の暮
この歌を見て、掛取りは声もかけず去って行った。どこか憎めないところが蕪村にはあったのであろう。摂津国東成郡天王寺村が蕪村が育った村である。大阪と神戸との間の地域で、天王寺蕪の産地として有名である。蕪村は、この蕪に因んだ名である。蕪村の母はこの村にほど近い毛馬村の貧農の娘で、大阪の大店に奉公に出た。店の主人が、田舎娘のけなげですくよかな姿に惹かれるところがあって、手をつけてしまった。生まれたのが、蕪村である。生まれた所を回想して作られた「春風馬堤曲」にある馬堤とは、郷里の毛馬の堤のことだ。
春風や堤長うして家遠し
蕪村もやはり母のもとを離れて大阪に奉公に出た。商家での奉公は、蕪村には向いていないようであった。薮入りで、母のもとに帰るのが唯一の楽しみであった。絵描きとしても認められ、画と俳諧で名をなしたが、ほかの宗匠たちのように銭かせぎに頓着しない性格であった。
一人娘がいたが、名をくの、とつけ可愛がった。蕪村が60歳を迎えたころ、くのに良縁があり嫁入りをさせて喜んだ。知人への手紙に、「良縁在之宜所に片付け、老心をやすんじ候」と書いている。ところが、嫁いでみると、舅がひどく貪欲で、嫁を働きづめにした。手を傷めても、休みももらえないので、蕪村のもてへ里帰りした。くのの話を聞いた蕪村は怒って、そのまま離縁させてしまった。
案外と世間知らずの蕪村は娘の縁談だけではなく、門人たちへも信用しすぎて、裏切られるということもしばしばあった。天明3年12月24日、病床にあった蕪村は、小康をとりもどしていた。明け方、門弟に硯の用意をさせて筆をとった。
しら梅に明る夜ばかりとなりにけり 蕪村
この句が、蕪村が残した最後の句であった。
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