常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

クリスマスイブ

2014年12月24日 | 日記


クリスマスイブを老妻とローストチキン、赤ワイン、ケーキで祝ってみた。思い出すのは、40年以上前の、子どもたちと過ごしたクリスマスだ。無水鍋で、近所の養鶏家から廃鳥を安く譲ってもらい、一羽ごと蒸し焼きにして、大騒ぎしながら食べたことだ。クリスチャンでもない身で、なぜクリスマスを祝うのか、深く考えないで、食べ楽しむイブである。

子へ贈る本が箪笥に聖夜待つ 大島 民部

こんな記憶も遠い時間のかなたである。餅や焼肉用の肉、心づくしを詰め合わせて子どもたちへ贈る。クリスマスの次は、お正月である。


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与謝蕪村

2014年12月24日 | 


与謝蕪村は俳諧で名をなしていたが、宗匠の道に進まず、清貧に甘んじた。一汁一菜、シンプルな食卓であった。歳の瀬になると門口に、狂歌を下げて掛取りを驚かした。

首くくる縄切れもなし年の暮

この歌を見て、掛取りは声もかけず去って行った。どこか憎めないところが蕪村にはあったのであろう。摂津国東成郡天王寺村が蕪村が育った村である。大阪と神戸との間の地域で、天王寺蕪の産地として有名である。蕪村は、この蕪に因んだ名である。蕪村の母はこの村にほど近い毛馬村の貧農の娘で、大阪の大店に奉公に出た。店の主人が、田舎娘のけなげですくよかな姿に惹かれるところがあって、手をつけてしまった。生まれたのが、蕪村である。生まれた所を回想して作られた「春風馬堤曲」にある馬堤とは、郷里の毛馬の堤のことだ。

春風や堤長うして家遠し

蕪村もやはり母のもとを離れて大阪に奉公に出た。商家での奉公は、蕪村には向いていないようであった。薮入りで、母のもとに帰るのが唯一の楽しみであった。絵描きとしても認められ、画と俳諧で名をなしたが、ほかの宗匠たちのように銭かせぎに頓着しない性格であった。

一人娘がいたが、名をくの、とつけ可愛がった。蕪村が60歳を迎えたころ、くのに良縁があり嫁入りをさせて喜んだ。知人への手紙に、「良縁在之宜所に片付け、老心をやすんじ候」と書いている。ところが、嫁いでみると、舅がひどく貪欲で、嫁を働きづめにした。手を傷めても、休みももらえないので、蕪村のもてへ里帰りした。くのの話を聞いた蕪村は怒って、そのまま離縁させてしまった。

案外と世間知らずの蕪村は娘の縁談だけではなく、門人たちへも信用しすぎて、裏切られるということもしばしばあった。天明3年12月24日、病床にあった蕪村は、小康をとりもどしていた。明け方、門弟に硯の用意をさせて筆をとった。

しら梅に明る夜ばかりとなりにけり 蕪村

この句が、蕪村が残した最後の句であった。

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