最近、年のせいか涙もろくなったような気がする。テレビでドラマの感動シーンで急に涙が込み上げてきたり、スポーツ番組でも応援している選手が活躍したときもそうである。若いころはそんなことはなかったように思うが、感動には差がないのに何故か涙が出てくる。
コボで小説を読むようになって、不思議に涙が出る機会が多くなった。朝井かまて『恋歌』、小川糸『食堂かたつむり』、『つるかめ助産院』、葉室麟『蜩ノ記』、三浦しおん『木暮荘物語』など、コボの液晶画面を見入って涙ぐむと、きまって妻にからかわれる。そんな感動シーンのあまりない『ビブリア古書堂の事件手帳』を読んでいても、涙が出てくるのは我ながら恥ずかしいような気がする。
唐の詩人陳子昂に「幽州の台に登る歌」がある。詩人は彼の地の高台に独り登り、愴然と涙を流している自分を詩に詠んでいる。
前に古人を見ず
後に来者を見ず
天地の悠々たるを念ひ
独り愴然として涕下る
悠久の大地で、独りいる自分を思い、どっと涙があふれる。愴という字には悲しいと意味を含んでいるが、悲しくて涙が流れたのではあるまい。悠久な地に対して、あまりにも小さな存在に過ぎない自分。それはかけがえのない自分でもある。そんな自分の存在に気付いたとき、詩人の目にはわけもなく涙が下ったのである。ドラマや小説を読んで流す涙とは、あまりにも質の違う涙である。