師走に討ち入りを果たした大石内蔵助以下の赤穂浪士は、細川家ほか三家にお預かりとなっていたが、元禄16年2月4日朝申し渡しがあり、その日に死を賜った。死に臨んで赤穂浪士の立派な態度は、江戸中の語り草になった。死の前日のエピソードがある。夜になって、内蔵助は厠に立った。二人の茶坊主が内蔵助に従い、一人は手燭を持ち、もう一人は湯を持って厠の前で待った。
内蔵助が厠から出てくると、二人の茶坊主が涙を流して忍び泣きをしている。内蔵助が「何故にお泣きなさる」と尋ねると、「お傍にあって懇意にしていただきましたのに、明日お別れと思うとお名残惜しくて」と答えた。内蔵助は顔色ひとつ変えず、「これは覚悟にあることをよくぞ知らせて下さった。長くご苦労をお掛けしわれらとてお名残惜しゅうござる。持ち古したものですがこれを形見に」と一人には紙入れの嚢、もう一人には腰下げの巾着をその場で取らせた。
翌日、内蔵助は従容として死についた。二人の茶坊主の家には、内蔵助の形見の品が宝として末永く伝えられたという。