常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

武市半平太

2016年05月11日 | 


土佐藩の勤王党の首領武市半平太は、藩主山内容堂に吉田東洋暗殺の廉で切腹を賜った。慶応元年(1861)5月11日のことであった。享年37歳、前途のある士の死であった。半平太は豪農の息子で士族とは身分の開きのある郷士であったが、剣を学んで天才的なひらめきがあり、道場を開き、勤王の志士として名を響かせていた。同じ郷士であった坂本龍馬とも、昵懇の間柄であった。土佐勤王党は、郷士の青年のなかで、勢力を増やし、藩を尊王へと動かす力を持つ至った。やがて藩主容堂は、勤皇派の弾圧に乗り出した。

半平太は即時討幕を主張し、公武合体をめざした藩主とは主義が合わなかった。獄中で死を覚悟した半平太は、盥の水に我が顔を映し、自画像を描いた。それに手紙をそえて実家に送った。手紙には「ちと男上がりがよすぎて、ひとりおかしく候」と書いてあった。学問にはたけていなかったが、絵をよくし着色の美人がなども描いていた。顔は鰓が異様に張っていて、仲間に「鰓」とあだ名されてうた。龍馬が帰省して、「鰓はあいかわらず、窮屈なことを言っておるか」と仲間に言ったが、これを聞いた半平太は、「なに痣が帰ったとや、また大法螺を吹きおろう」と笑ったという話がある。

この日、切腹の宣告を受けると、腹を三文字掻き切って従容として死についた。長州の久坂玄瑞は半平太を評して、「人物の高いことは、西郷吉之助の上にあるであろう」といい、人格において維新の志士のなかでも群を抜いていた。辞世の歌は

ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり 武市瑞山
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